厠草子

これで尻でも拭いてください

思うこと

あの表現はたしかに秀逸だった。「絵から自分を罵倒する声が聞こえた」。

傑作に打ちひしがれることはあっても、その偉大さに悪意を感じることはない。それが己を攻撃しているという「被害妄想」は、あの悲惨な事件の犯人のあまりにも捻れた、身勝手な、犯行動機を思わせる。


しかし「妄想」症状そのものは、決して即時犯罪につながるものではない。

そりゃあそうだと思うかもしれない。水をさすなと言われるかもしれない。そういう人の中でも、比較的聞く耳を持ってくれそうな人に、わたしは話をしてみたい。

 

 

あの作品を読んだとき、あの男が現れた下りを見てあなたはどう思っただろうか。

「うわーあり得るな」「理不尽な犯罪を犯す奴って自他が曖昧になっててどっか壊れてそうだもん」「こんなやつに殺されちゃたまったもんじゃないよ」「現にニュースで見るしなぁ」「こわいこわい」「いや、あえて責任能力のない人を出すことによって表現をマイルドにしているのか… あの事件の犯人まんまで書くわけにもいかないからな」

これはうっすらとしたわたしの感想をあえて言語化したものだ。

偏見満載でひどいものだ、でも他の人だってそんなに遠くないんじゃないかと思う。今回の件に関しては、こういう感想を持っていた側としてはバツが悪い。

 

だから、だってそうじゃん、と言い返したくもなる。

「だって被害妄想が動機で殺されるなんて最低だろ」

それはそうだ。そしてそれは少なからずあの事件に重なる感想じゃないかと思う。

あんな素晴らしい作品を生み出した人たちだからこそ、なぜ殺されることになったのかという怒りが、悲しみが、あの時多くの人の胸に去来したことだろう。わたし自身も京本と亡くなった人々を重ねて、その時の思いをまざまざと思い出した。

いやむしろその時以上の強さで、新たに胸に抱き直したと言ってもいい。


「作品が自分を罵倒しているなんて幻聴、理不尽な妄想以外の何物でもない」

それもそうだろう。自分が悪くないのに殺されるなんて死んでも死に切れない。

まして京本は藤野にとってとても大事な友だちで、これから大きく飛躍するクリエイターでもある。彼らの背中をずっと追ってきた読者は、その先に続いているはずの輝かしい未来が理不尽に途絶えてしまったことに、残酷だという思いを抱くんじゃないだろうか。

 

確かに犯行は理不尽だった。現実でもフィクションでも。

じゃあその「作品から罵倒する声が聞こえる」現象そのものは、犯人の理不尽さ、捻れた嫉妬心や身勝手な憎しみに100%由来するものなのだろうか。

 

わたしは無知だったので、当事者から声が上がるまで、それが「悪意なしに起こりうること」であるということを意識していなかった。それというのは「幻聴」のことである。そしてその精神症状には、不安に由来して起こり、自分を否定する声が聞こえてくるものだってある。


知らないものと等式は結べない。結べるものと結ぶしかない。それに、この作品はまるであの事件を焼き直したような展開なのだから、結ぶ先は一つしかない。

自分の人生の苦悩が、絵から聞こえるありもしない罵倒という形で現れる。その構図は、怒るべき相手を間違えている、適切な対処を間違えている、あの事件の犯人の理不尽な憎悪を見事に翻案しているように見えた。


ただ、実際に起きた犯罪、それもどうあったって正当化できないように思える身勝手でむごたらしい犯罪者役を、それ自体によって犯罪に至ることのない精神症状をともなった人物に重ね合わせると、当然ぴったりとは重ならない。

その症状を伴っていても、罪を犯すに至らない人、ただただ苦しんでいる人が、ひと握り、いやもしかしたらわたしが思っているよりずっと沢山存在しているからだ。


精神的な不調や特性と犯罪との関係は、専門家によって慎重に議論されている。そこについては門外漢なので言うべきことはない。もっと勉強しなければならないなと思うばかりだ。

ただ、かつて精神を病み、電車の乗り方が分からず路上で右往左往し、やっと入れたホームで泣きながら病院に遅刻の連絡をした者として、思うところはある。


人は病みたくて病むのではない。会社や学校に行きたくなくて行かないのではない。病みたくないのに病むし、行きたくても行けないのだ。

それを個人の弱さに還元する悲しい文化は今もなお残っているし、立居振る舞いに変わったところが目立つと遠巻きにされる現実はある。

一方で、他人にすり減らされ、社会で決められたラインにうまく並べないのは、それを強いた他人や社会にだって責任があるんじゃないの、という考え方も、以前より支持を得ているように思う。

そういう苦しみの延長線上、もしくは同一線上に、現実にはあり得ない声や視界に苦しめられるという症状もあるんじゃないだろうか。体験した事がないし、つい遠巻きにしてしまうし、無関心になってしまう自分がいるにせよ。

苦しみ自体に誰かへの悪意があるわけではない。そう言われたら誰だって頷くんじゃないだろうか。

それをすっかり忘れて「そういう描き方」として無批判に受け入れてしまうことは、症状に苦しんでいる人をさらに追い込むことになるのではないか。

そう思い至って初めて自分の無関心さを恥ずかしく思った。人を傷つけてしまうことはもちろん、自分の中の差別感情のようなものに全く気付けなかったことがおそろしかった。わたしが無批判に受け入れた価値観は、他のひとたちも受け入れて、やがて大きな世論という海になる。

その海に投げ出される当事者を作ることは、彼らをさらに孤独な世界に閉じ込めることのように思えた。


そんなことを書くと「殺したくないのに殺してる、なんて話も成立するのかよ」とせせら笑う野次が聞こえてきそうだ。そりゃあその通りだと思う。とんでもないものを奪っておいて、そんな言い訳は通用しないよ、とわたしも思う。


ただ、これはもう本題とはなんの関係もないわたし個人の思いだけれどーー人を殺したくて殺す人間なんて、本当にいるんだろうか。

いろんな選択肢を検討する余地があって、その中から「人を殺す」を進んで選ぶ人間なんているのか、その行為に及ぶのは「それしか選択肢がないから」ではないのか。

わたしもとっても嫌いな人間のことを考えるとき、選択肢の中に「殺す」を入れこそするが、実際にその行為に及ぶことは一切ない。「気晴らしをする」とか「自分を大切にしてくれる人のことを考える」とか「悪口を吹聴する」とかいう選択肢が取れるからだ。

だから、京本を殺した本当の犯人は、犯人をあそこまで追い込んだ事象のひとつひとつ、それに関わっていた数多の他人なんじゃないかと、個人的には思う。


「本当に殺したくて殺したんだろうか」それはあの作品の中に回答を求めるべきことじゃない。作品を読んだ我々が考えることだ。

だからわたしも勝手にそんなことを考えている。そしてわたし個人の考えに基づいて、そういう非常に微妙な問題と、ある人たちの持つ特性が安易に重ねられてしまうのは、あまり良いことじゃないと思っている。間違ってもキャンセルカルチャーを支持したいわけではない。今回はあまりにも想起される事件が凶悪で、むやみに重ねられる側が嫌がるのも当然だろうと思っただけだ。

 

余談だが、わたしはとある宗教の信者の2世でもある。だから特定の宗教の特徴を踏襲した「カルト宗教由来の犯罪グループ」みたいな表現は、やっぱりちょっとモヤっとする。「宗教に縋るオツムの弱い人」みたいな言い草も、正直好きじゃない。

当事者の何を知っていてそんな事が言えるのか、と思うし、こちらの葛藤を知らずに土足で踏み込んでくる浅はかさにうんざりする。

立場が変われば誰だってそういうもんだろう。

 

閑話休題
あの見事な翻案が日の目を見なくなることに少し残念な気持ちもあるが、そこに固執する必要もない。犯人のセリフが変わったって、作品から失われた要素は微々たるものだ。むしろそれで傷つく人が減るなら変更もやむなしだろう。そのあたりは当然作者や出版社も天秤にかけて考えていると思う。

変更後のセリフだって、決して作品の質を貶めてはいない。怒りの表現がストレートになったところで作品は普通に成立する。むしろあの形に収められたところに作者の手腕の確かさを感じたくらいだ。

(余談だが、先生は大多数の意見に圧殺される形で表現の変更を余儀なくされた、というのは少々先生に失礼ではないかと思う。わたしたちがちょっと考えてみたようなこと、あの漫画を作り上げた人ならば考慮しないわけがない。寄せられた意見の量は判断材料になっただろうが、あの処置はいろんな事情を考え尽くした末の本人の意思だと思いたい)


だから本当に、思うところはひとつだけだ。敵を間違えるなという話だ。

 

あの事件による、大勢の人の悲しみを束の間救済してくれるような作品だった。クリエイターを勇気づけてくれる内容だった。今回の件はそれを否定するような話じゃない。楽しい気持ちに水をさした人は、決してそれを否定したいわけじゃない(というか、作品の感想とキャスティングへの批判は切り分けて語るべきだろう)。

ただ一部の表現に悲しんだ人がいて、作者や出版社はその声に応える選択をした。それであなたの読書体験から何が失われたのだろうか。

何かが失われた、損なわれたように感じたなら、それはどこに由来するんだろうか。

それは、今苦しんでいる人を無視してまで守るべきものなのだろうか。敵は、戦うべき相手は、本当に私たちの前に立ち塞がっているのは彼らなんだろうか。


それは凶悪犯罪への怒りかもしれないし、キャンセルカルチャーへの苛立ちかもしれない。

はたまた自分の創作活動への不安かもしれないし、誰か大切な人を失った悲しみかもしれない。


わたしも敵を見誤らないでありたい。「ルックバック」の、あの藤野の背中を見せられた今、強くそう思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

雑記:粧すということについて

 年が明けた。最近のわたしはというと、たいそう疲れ果てている。

 

 短かかった正月休みにだらけた体が回復しないままこの2週間は過ぎた。離職の手続きのバタバタもあり、精神的にもあまり余裕がなかった。

 気が付けば、部屋はぐちゃぐちゃ、食事は不規則、着るものも髪型も適当な上にすっぴんで出社、みたいな毎日になっていた。寝癖がついた髪のまま仕事をして、家に帰れば散らかった部屋の散らかった布団にダイブしてそのまま寝てしまう。気が付けば深夜の3時とかになっている事もザラだ。しかも煌々と明かりがついたままの部屋で眠るのだ、十分に睡眠を取れるわけがない。当然朝は眠たく、仕事にやる気も出ず、毎日苦痛でしょうがなかった。

 この悪循環をなんとかせねばと思い立ち、掃除を試みるも途中で力尽きて頓挫。部屋は余計に散らかったまま日が過ぎていく、ということを繰り返していたのだが。

 

 本日、不意に思い立ち、好きだったメイク系youtuberの動画を観ながら、久しぶりに自分の顔に化粧を施してみた。

 平日にちゃんと化粧をするのは、年末ぶりだろうか。下手したら1ヶ月はまともに化粧をしていなかった気がする。丁寧に眉を描き、何種類もアイシャドウを使って目の周りを飾りたて、頬紅をはたいた。するとどうだろう、鏡の向こうにはとても色ツヤのいい、健康そうな人間が立っているではないか。

 粧しこむ必要の全くないところで粧し込んだことで、謎に元気が出てきた。鏡の自分が元気そうだから、脳がわたしも元気だと錯覚したのかもしれない。はたまた可愛い顔したわたしがこんな汚い部屋に住んでいるなんてありえない!という心理が働いたのかもしれない。そのままわたしは溜まっていた皿を洗い、服を洗濯し、手料理を食べ、風呂に入った。まるで真人間に生まれ変わったかのように活発である。

 そこで気を良くしたわたしは、こうして久しぶりにブログに文章を書いているというわけだ。

 

 結論から申し上げるが、やっぱり自分で自分を「いい」と思えないと、自分を大事にすることは困難であるように思う。

 わたしの場合はそれがたまたま化粧だったが、自分で自分を「イケてる」状態にプッシュアップできるツールを持っておくと生活は潤う。人によってはそれが高いスキンケアだったり、おしゃれな服だったり、片付いた部屋だったり、自分で料理を作ることだったりするのだろう。もしかしたら誰かに褒めてもらうことかもしれないし、人知れず善行を重ねることだったりするかもしれないし、Twitterでいいねをもらうことだったりするのかもしれない。

 そして、そういう手段はなるべく他者に依存しないものの方がいいのだと思う。その点化粧は素晴らしい。なんと言っても、自分で自分を見て可愛い〜!って言えるのがいい。アイテムを褒めながら、同時にそれで粧した自分のことも褒めてあげられるなんて魔法みたいだ。

 粧すとはつまりメイクアップでありパワーアップなり、ということで本日はこれまで。

 

 

 

 

世界よ、かわいいの種類は無限ではありませんか(後編)

前編のあらすじ

 

フェリシモとの出会いにより、コンセプトを纏うというおしゃれにおけるy軸を手に入れたが、ついにすきな人ができてしまう。

 

 

大学生その2:モテとはどんなものかしら

 

 そう、すきな人ができてしまったのである。それは、自分以外の人間(それも異性)に自分自身を「いい」と思われる必要が生じてしまう、ということでもあった。身なりを整えるにしても、自分ウケばかり狙っているわけにはいかなくなったのである。

 すきになったのは、大学の先生だった。もっとも、17歳離れた異性に好かれたい、という思いが、最初から自分の世界観と衝突していたわけではない。大学2年生あたりのわたしは、かわいいからと生足でショートパンツを履いたり、パニエみたいなチュールスカートを着てみたり、目に眩しい色のカラータイツを履いたりしていた。制服ちっくな世界観も好きだったのでプレッピースタイルに近い服装もしていた。そうして、自分の世界観の中から出ようとせずに、気に入った服を好きなように着ていた。

 

 そんなわたしだったがある日、あるブログを読んで、ぶん殴られたような衝撃を受けた。

 そのサイトは『蜜の国 | その恋、遠くから眺めれば「蜜の国」』といった。わたしが今まで出会った中でいちばん実用的な恋愛指南ブログだった。

(ブログ改装にともない、当時読んでいた記事は見ることができないみたいです)

 

 詳細は読んで貰うのがいちばん良いが、わたしなりに要約すると「他者に嫌悪感を抱かせず、かつ自分の意思を持っている人間は人を惹きつける」というのがそのブログの内容だった。その文章を読んで、他人からどう思われるか、という視点が自分から全く失われていたことに気が付いた。と同時に、自分の中にある強烈な欲望にも気付いてしまったのである。

 

 モテたい。

 すきな人にはもちろん、そうじゃない人にも好かれたい。

 

 3歳で「かわいい」を意識し始めてから17年が経っていた。「まともに扱われたい」「周りから浮かないでいたい」「自己表現したい」という段階を経て、ついに「モテたい」という欲望を持つに至ったのである。実に長い道のりだった。

 思えば「好かれたい」という気持ちはいつもあった。でも現実が厳し過ぎて、他者の視線を受け止める余裕なんてなかった。「可愛くないから愛されない」という思いに邪魔されて、ずっと見た目に自信がなかったし、自己表現が出来なかった。だからまず「見た目を批評されたくない」「安全な場所で自分の内面をさらけ出したい」「誰かに自分を受け止めてもらいたい」という欲望を叶えることに必死だった。他者にどこがまずいと思われているのかを直視するなんて、怖すぎて無理だった。しかし、他者に「いい」と思われるためには、他者の視線を受け止めねばならない。x軸とy軸に次いで、z軸の存在を認知した瞬間だった。

 大袈裟かもしれないが、「モテたい」という欲望に駆られて初めて、わたしはこの世に他人がいることを思い知ったのだ。

 

 「モテ」を意識するにあたり、まず個性的でどうしようもない服は処分した。気に入っていたパニエスカートとお別れしたのもこの時だ。

 そしてユニクロとGUをはじめ、シンプルかつリーズナブルな服を入手するようになった。自ずと纏う色もモノクロとアースカラーが中心になった。化粧もナチュラルで控えめな方向にシフトチェンジした。

 着回しができるくらい服を揃えると、むしろ経済的であることも発見だった。モノ萌えで服を買い揃えていた時は、1点1点が個性的で取り合わせに苦労した。その接着剤、ハンバーグでいう「つなぎ」としてシンプルな服を買ったりもしていたが、なんだかチグハグだった。「シンプル」はそれ自体が一つの主張であり、個性的な服と取り合わせると喧嘩する、ということに気がつくのはそこからさらに後だが、取り急ぎほぼ全ての服を「シンプル」にしたらつなぎの服を買う必要もなくなった。

 目指すは「こいつめんどくさそう」「ややこしそう」「清潔感がない」と思われない装いである。17歳年上の男の人が果たしてどんな女性を好むのかはわからなかったが、まともな格好をしていれば嫌われはしないんじゃないかという算段はあった。

 気づけば大学3年生になっていた。ゼミが始まるということもあり、心機一転、人に好かれる自分になってやろうと意気込んでいた。「モテたい」という欲望を起点にした身だしなみを整えるブームは社会人になるまで続いた。結果的に分不相応な恋には敗れたし、ゼミは女子ばかりでモテもクソもなかったが、見た目の作り方に明確な指針ができたことで、わたしの精神はかなり安定した。

 

 と思っていたのだが。

 問題はまだ残されていた。

 どれだけ普通っぽい服を手に入れたところで、他のかわいい女の子に比べて、自分を「好き」にはなれなかったのである。

 

社会人:鑑よ鏡

 社会人になって、会社に行くようになってからは、服に悩むことはほぼなくなった。なんせ週5でオフィスカジュアル、残された土日のうち1日は寝て過ごすのだから、自己表現をする機会は週に1回あればいい方である。会社に行く服は基本オフィスカジュアルのローテーションだし、学生の頃に比べたら休日用の服について試行錯誤する財力もある。そういうトライアンドエラーは楽しかったので、装うことは趣味と言っていいくらいになっていた。

 ただ、自分に対する自信は一向につかなかった。

 なんとか擬態しているけれど、わたしは他のかわいい女の子とは違って地味でかわいくない顔立ちだ。同じ服を纏っていても、横に並べたらわたしの方が容姿で劣るに決まっている。「かわいい」とたまに言われることはあっても、評価されてるのは擬態の完成度であって、それはわたし自身の魅力ではない。そういう思いがあって、対人関係でも自分を出すことに抵抗感があった。

 社会人1年目は特にそうだった。少ない同期の中で、わたしは1番模範的な態度の新入社員であろうと努めた。同期にも、先輩や上司にも、自分を曝け出すのが怖かった。「モテ」は有利だ。従順で没個性的な態度こそベストな選択肢だ。そう思い込んでいた。

 その一方で、自分以外の女の子、いや全人類はみんな魅力的に見えた。個々に違ったかわいらしさがあって、キャラクターの引き立つ容姿と、何より惹きつけられる内面を持っていた。わたしがそれが羨ましくて仕方がなかった。あつらえたような個性のあるみんなと、擬態で誤魔化しながら生活している自分を比べると、その差に打ちひしがれずにはいられなかった。今にしてみれば、擬態に努めるあまり「自分らしさ」へのアレルギー反応を起こしていた様に思う。自分が自分であることを、わたしはどうしても受け入れられなかった。ありのままの自分とは、わたしの目から見える世界にとって異物そのものだった。

 

 そんな状況が長く続いた。社内の人と打ち解けるようになってからも、「素の自分のままではこの集団に居場所はない」という思いは消えなかった。仕事で一度大きな失敗をしてからは、さらに居場所のない思いに苛まれて心を病んだ。直接関係はないかもしれないが、そういうどうにもならない自己嫌悪が、悪化の遠因になっていたようにも思う。

 

 そんな折、ふとした時に同期に言われた言葉に、またしてもわたしは衝撃を受けた。

 

 「なんか、日向坂の佐々木美玲に似てるよね」

 

 興味がある人はググってみてほしい。そして検索窓にその名前を打ち込んだら、自分と全く同じ顔の人間が出てきた時の衝撃を想像してほしい。

 佐々木美玲さんはマジでわたしに似ていた。いや、もちろん顔の完成度は彼女の方が圧倒的に高いのだが、系統はほぼ一緒だと言って相違なかった。メガネをかけさせるとほぼわたしだった。びっくりした。この世には、顔が似ている人って本当にいるんだ、と呆然とした。

 

 そしてわたしは彼女のことを、綺麗な人だと思った。

 

 ゆっくりと自分の考えていることを整理した。

 わたしは、わたしに似た顔の人を綺麗だ、と思った。それはつまり、自分自身に対しても、同じ言葉を掛けられるということなんじゃないだろうか。

 彼女に対して抱いた印象は「綺麗だ」だった。「かわいい」じゃなくて、「綺麗だ」でもいいんじゃないのか。いや「綺麗だ」だけじゃない。「大人っぽい」とか「真面目そう」とか「優しそう」だって、ありなんじゃないのか。わたしが、他人の個性を素敵だ、と思っているように、わたしもわたしの個性を認めてもいいんじゃないだろうか。「かわいい」って、人の魅力って、x軸とかy軸とかz軸とかで測れないんじゃないのか。

 

 その日、帰って全身鏡の前に立った。そこに映ったのは見慣れた自分だったけど、嫌いで仕方なかった自分だったけど、ほんの少しだけ彼女を「いいな」と思えた。

 

 

総括:世界よ!

 この話はこれでおしまいである。

 後日談的に付け足しておくならば、あれからわたしの服装はほんの少しだけ個性派に逆戻りした。

 ZARAの虎柄のシャツを着たり、真っ赤なワンピースを着たり、職場でシルバーの靴を履いたりしている。大学時代、「ZARAは7割ゴミ」と言って憚らなかったわたしが、である。

 あと髪も赤色に染めた。会社の人には「グレたのかと思った」とコメントされたけど全然平気だった。

 自分の世界観と、自分以外の全ての他者の視線、その折り合いのつくところが1番居心地のいい場所だ。あと、多少無理して自分の希望をゴリ押ししても人はそんなに咎めないでしょ、と居直る気持ちもある。他者の視線を読んで自分をコントロールするのも、他人と共存する上で大事ではある。しかし、何よりまず自分が生きてないと始まらない。人間を花に例えたSMAPのあの歌は、ひょっとすると世界の真理なのかもしれない。

 

 

 世界よ、かわいいの種類は無限ではありませんか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

世界よ、かわいいの種類は無限ではありませんか(前編)

 

 

 おしゃれが好き。

 

 昔から『かわいい』という言葉を呪い、またそれに憧れながら生きてきた。

 自分が『かわいい』側でないことへのコンプレックスは3歳くらいの時からあった。当時の友達がお金持ちの美人さんで、私はさえない顔と服で彼女の隣に並ぶたびに「ああ私はかわいい子ではないのね」と思わずにはいられなかった。

 そこから20年あまりの歳月を経て、ここ最近、ようやく『かわいい』という言葉に対する心の持ちように、ひとつの決着をつけることができた。備忘録を兼ねて、そこまでの過程をかいつまみながら書いていこうと思う。

 

幼少時代:「かわいい/かわいくない」二元論

 私の顔は『ちびまる子ちゃん』の野口さんに似ている。いや、野口さんのほうが三百倍くらいかわいい。野口さん系統の薄い顔、しかし唇はぶ厚く、かつ鼻の大きな老け顔で、眉毛も濃い。しかも常に陰気な表情を顔面に貼り付けている。率直に言って、手放しで『かわいい』と称賛される顔ではない。まだ未成熟かつ、化粧や服装で彩りを加えられない子ども時代は特に、「何もしなくてもかわいい」ひとが羨ましかった。

 「何もしなくてもかわいい顔」ではない以上、何かしたほうがいいに決まっているのだが、私の家はファッション誌を持ち込んだりできる雰囲気ではなかった。真面目で倹約家な母は、子どもが大人の真似をして着飾ることをあまり好まなかったからだ。

 それにわたしが年頃になるといつわたしの体に「思春期の女の子」の兆候があらわれるか、やや過保護気味に見守る傾向が強まったこともあり、「そう待ち構えられるとこっちが気まずい」という羞恥心からわたしも「女の子」らしく振る舞うことを控えていた。

 するとまあ、みるみる流行から取り残されていく。Tシャツ半パンが基本ルックだった友だちは、いつのまにかスカートを履き、可愛くてちょっと色っぽいトップスを身につけ、髪もサラサラになり、全体的に「おしゃれ」になった。

 そんな装いをしている同級生が羨ましかったのだが、いかんせん照れやら家庭の方針やらによっておしゃれに関する情報をほぼシャットアウトしていたため、どうやって「おしゃれ」したらいいのかまったくわからなかった。どちらかというといじめられっ子だったために、クラスには馴染めず、友だち伝いにそういう情報を得ることが難しかったのもある。

 結果「ケープ」のナチュラルハードタイプをつけすぎて寝癖のような髪型になったり、何もつけずにカミソリでムダ毛を処理して肌を傷めたり、ノベルティでついてくるペットボトルホルダーをポシェットに代わりにしたりと迷走しまくっていた。さながら「おしゃれ」文明から取り残された野人であった。

 その頃、自分の中に生まれた確固とした自覚が、わたしは「かわいくない」側だというものだった。教室を見渡してみると、「かわいい」側の子は丁重に扱われていたし、「かわいくない」側の子は何か特技や一目置かれる理由がない限り舐めた扱われ方をされていた。「かわいい」は特権階級であり、生まれながらにしてそれを持たないわたしは特権階級の人々に逆らってはいけない、それが生き延びる為の鉄則だった。

 今にして思えば、わたしに友達がいなかったり、いじめられっ子だったりした理由はわたしのコミュニケーション下手と単純な相性の問題だったのだが、まだ小学生の子どもにそんな状況分析ができすはずがない。だからこそ、わたしは「かわいい」の力を大いに恐れ、それを持って生れなかったことを呪っていた。

 

 

中高生:左右をよく見て渡りましょう

 上記の掟を発見したわたしは、ひたすらに「目立たない」という選択肢を取り続けた。調子に乗っておしゃれはしない、かわいい小物も持たない、スカートを短くするなんてもってのほか、という調子で学生生活を送り続けたため、いじめられることがなくなっても「かわいくない」側であるという事実がなくなることはなかった。

 中学校は制服がかわいかったので、放課後遊びに行くにもその格好でよかったのが幸いだった。だが当然、外見を整える能力は野人レベルのままである。私生活ではリサイクルショップで買った流行でないスカートをはいたり、知り合いのおばさんのお下がりをそのまま着たりしていた。

 そんな野人が文明人へと一歩を踏み出したのは高校生の時である。

 端的に言って服がダサい、と初めて友人に指摘されたのだ。

 自他ともに認める野人時代から、自分なりに努力したつもりだったので、友人の言葉はかなりの衝撃だった。しかし今ならわかる。その頃、わたしの中にある「かわいい」格好のバリエーションは、アニメや漫画に出てくる女の子くらいのものしかなかった。買う新品の服もなんだかコスプレちっくというか、モノそれ自体が可愛くても、なにかと合わせるにはあまりにもちぐはぐというか、主張の強い服ばかりだったのである。

 パッチワークのワンピースに適当なパーカーを羽織れば「カーテンみたいだ」と言われ、白シャツに赤チェックのミニスカートを履けば「コスプレか」と言われた。

 友人の歯に衣着せないコメントによって、わたしはひとつの概念を習得した。

 流行であり、かつ主張の強くない服のほうが集団からは浮かないらしい。信号と同じだ、周りを見た方が安全なんだ。

 あくる日、ファッションセンターしまむらで買った、シースルーのトップスを着てライブに行くと、「今日は普通じゃん」と言われた。その言葉でようやくわたしはホッとすることができた。よかった、ちぐはぐで痛々しい女の子ではなく、みんなと同じ年頃の女の子のいる岸にたどり着くことができたのだと。

 友人のコメントに多少傷ついたりはしたが、この「かわいい」側、少なくとも「普通」の世界に足を踏み入れられたことは、自分にとってひとつの転換だった。「かわいい」が作れるかどうかはさておき、とりあえず「かわいくない」は投資と模倣で払しょくできるらしい。これはかつて「かわいくない」側として侮られ、ひどい目に遭い、「かわいい」側への恨みつらみと共に生きていた頃からしてみれば、大きな希望だった。

 とはいえ、「かわいくない」を払拭することと、「かわいい」状態になることは、当然同じ作業であるはずがない。前者が「ちぐはぐな組み合わせをしない」「奇抜な服は選ばない」「清潔感のある髪型をする」などマイナス要素を避けることであるとしたら、後者は「センスのあるアイテムを選ぶ」「流行の髪型に近づける」「自分の長所が活きる装いをする」などプラスを積み重ねていく作業であるといえる。「かわいくない」の払拭とは「垢ぬける」ための作業と近いものがある。アイテムをプラスするだけで変わるわけではないのである。

 が、しかし、当時「かわいくない」と「普通」の間でもがいていたわたしにそんなことがわかる由もない。そのため、わたしは「かわいくない」状態から抜け出すために、まず一番入門しやすそうな「かわいい」の形を模倣しようと考えた。

 

大学生:好きな服しか着たくない!!

 そんなわけで、わたしは当時メジャーなブランドのひとつであった「アースミュージックアンドエコロジー」の服で身を包み、心機一転、県外の大学に通い始めた。幸い自分の学科には派手なひともあまりいなかったため、その服装で目立つと言うことはまずなかった。そのうち「古着ガーリー」というジャンルに手を出し、見よう見まねでコーディネートを組んだ結果、程よく野暮ったい大学生が完成した。

 「かわいくない」を払拭、かつ目立ち過ぎないという点ではこれで完成形だったのだが、わたしはまだもやもやしていた。

 理由は二つある。

 一つに、周りを見渡してもわたしよりずっと「かわいい」人がいっぱいいたからである。浮いてないだけで、「かわいい」人になったわけではないのだ。たとえ同じ服をまとっていても、わたしよりかわいらしく着こなせる人は大勢いただろう。要するに先の「垢ぬけ」問題で躓いたのである。

 この点は、のちに「モテ」と「イメコン」という概念に出会って、少し攻略の道筋が見えてきた気がしている。他者に好かれるものを知り、自分に似合うものを知れば、百戦して危うからず、ってどっかの誰かが言ってなかったか。しかしそれを攻略する日はまだまだ先になりそうだ。現在の課題でもあるこの問題については、ここでは割愛する。

 もう一つの理由は、どうも自分の性格や顔面と、今自分が身にまとっている服の方向性が合わないのではないか、という疑問である。サークルや学科に友達が出来て心に余裕が生まれたとき、そもそもわたしは古着ガーリーな女の子になりたかったんだっけか、という思いが頭をよぎった。

 じゃあ、わたしの本当に着たい服ってなんだ?

 そんなタイミングでわたしは「フェリシモ」に出会ってしまったのである。

 

 これが衝撃的な出会いだった。

 あの通販の服には「草原に揺れるワンピース」やら「バレリーナみたいなノースリーブトップス」やら、何かしらのコンセプトがある。

 商品写真もその世界観に合ったお洒落な雰囲気で、モデルも赤文字系ファッションとは違って海外の大人っぽい人たちだった。アンニュイな表情を浮かべて木陰に立つその姿に、思ってしまったのである、わたしもこうなりたい、そしてこういう暮らしがしたいと。コンセプト、世界観を纏う、という概念が新たに追加された瞬間だった。

 この発見は見える世界を別物にした。例えるなら、いままでX軸の上を移動していたところに、突然Y軸が追加されたような気分だった。おしゃれとは「かわいい」「かわいくない」の二元論、またその間で折り合いをつける中途半端なものではなくて、その人の生活や雰囲気、趣味嗜好、果ては生き様までを表現できる豊かな手段だったのである。

 もちろんこの考え方は諸刃の剣だ。ひと昔前に炎上した「オタクファッション」の分類イラストを覚えているだろうか(いや覚えていない)。あれは「こういう服を着ている人はこういう人」を分類したものであったが、逆に「わたしの服ってガチでヤバい勢なのかな…?」「あの系統の服を着ていないとオタバレしてるってこと?」「わたしはわたしの矜持があってパーカーとジーンズなんだけど」などなど、本来線引きできないものまで線引きしてしまって炎上した(気がしている)。他人が来ている服ひとつで線引きできるものなんてない。

 ただ、他人じゃなくて自分が纏う分には、自分のいる場所をとことん分類し、定義づけすることだって悪くないと思う。それは自分が好きなものを知る作業、そして自分を構築する作業だ。納得して選んだものは胸を張って着られるし、そして心ない他者の視線から自分を守る鎧にもなる。

 以前、パニエもかくやとばかりのふわふわチュールスカートと、赤いリボンをあしらったサンダルで街を闊歩していた時には、遠くから不愉快な集団にディスられても全く何も感じなかったものだ。わたしはいま「おてんばなフランスのお嬢さん」なのだ、下賤の民に何がわかると強くなれた。

 

 この考え方はわたしを幸福にした。

 だが、人生には時に、そうは言ってもいられない事態が発生する。

 ついにすきな人ができてしまったのだ。

 

(後編に続く)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

心の皮膚


今日、十年来の友人に会ってきた。


彼女は心身があまり健康ではない人だ。現在就労はしていない。親御さんと、兄弟と、一緒に暮らしているという。

 

彼女はとても繊細な人だ。そしてその感受性の豊かさ、想像力の豊かさ故に、人と人との間に入って立ち回るのがうまい人だ。一見すると明るくてなんの問題もないお調子者である。
彼女は確かに感じがよく、物分かりがいい。ハキハキ話すし、さりげなく相手を持ち上げるのも上手い。お茶目な部分もあって、親しみが持てる人柄だ。そして優しい。優しすぎるくらいだ。嫌なことをされても何事もなかったかのように周りを許し、変わらず人に尽くしてしまう人だ。

 

そんな彼女の感情を、しかし周りの人間は汲み取ろうとしない。彼女も他人の意図を汲みすぎて、自分の意思を上手く伝えられない。それは親御さんも、兄弟も、周りの大人にしてもそうだ。特に、親御さんに関しては、長女だからと厳しくしつけられ、庇護された試しがないと彼女は言う。

 

周りの人間が一方的に搾取してしまう気持ちもよくわかる。面倒な決断を、音頭とりを、心のケアを、庇護を、世話を、人がやりたがらない役回りを、彼女にさせようとする気持ちが手にとるようにわかる。彼女はそれが出来る人間だからだ。それが出来る人間は重宝されるし、対価を求めないと延々と搾取されるものだとわたしは思っている。だから彼女にはいつも損な役回りばかりが回ってくる。

 

でも、もう彼女の心はかなりボロボロのようにわたしには見えた。寄りかかりようがないくらいにボロボロだ。彼女は自分に与えられている役割に疲れていた。心に皮膚があるとしたら、彼女のそれは弱り、些細な言葉のトゲさえも大出血に繋がるほどに頼りないものになっていた。


心の表面を覆う皮膚。それはきっと他者の勝手な物言いを寄せ付けない自信であったり、自分自身を大切に思う感覚だったりするのだろう。心が健康なら、他人との摩擦でできた擦り傷も時間が癒してくれるものだ。ただ彼女の心の皮膚は傷だらけで、栄養もケアも不足していて、その内側に外敵の侵入を許していた。

 

鼻毛が仕事をしないと風邪を引く。外敵が侵入するとやがて内側は蝕まれ病気になる。それが心か体かの違いなんだろうと思う。

 

わたし自身、彼女と仲違いをしていた時期もあったので、外敵となっていたこともあっただろう。もしかしたら今もそうかもしれない。
しかし、わたしは今切実に彼女に同情しているし、彼女から苦しみを取り去りたいと願っている。


何故かはわからない。
ただ、友だちを長くやっていると、この人がわたしの心の皮膚になってくれた、と思える経験も増えてくる。小学生のころ、いじめられていたわたしにも変わらず接してくれた。生まれて初めて「友だち」を心から信頼した。その相手が彼女だったことを、わたしは一生忘れられない。

 

わたしの存在は、言葉は、いつか彼女の皮膚になってくれるだろうか。
そうなることを願ってやまない。

 

すべての優しいひとが、心の皮膚を健康に保つことができますように。

 

意識の低い会社員によるモーニングルーティン

 

 どうも、YouTubeをご覧の皆様、「厠草子チャンネル」にお越し下さりありがとうございます! 本日は、やる気なし営業マンを自負するわたしのモーニングルーティンを紹介したいと思います。

 と言いますのも、巷で紹介されているものって大体「美容にやる気があって」「仕事に対するやる気もある」もしくは「仕事をしてない大学生」のものが多いじゃないですか。モデルさんや学生さんが朝それなりの時間をかけて複雑な工程で身だしなみを整えてるのは、やる気と余裕があればこそだと思います。

 やる気も余裕もないが、仕事上そこそこ身だしなみを整えねばならない、かつ朝に弱い限界社畜の朝とは、もう前提が全然違うんですよね。そんなわけで今回はわたし自身のモーニングルーティンを紹介しようと思います。モーニングルーティンというと聞こえがいいですが、遅刻すれすれで会社に駆け込む羽目になる、怠惰な会社員の毎日ですのでご承知おきください。

 

・起床

 (アラームのなる音)

 (蒲団から顔だけ出してスマホを操作する)

 (鳴りやむアラーム)

~30分経過~

 (スマホを確認)

……うおっ(飛び起きる)

 

洗顔・歯磨き

 ハイ朝ですね~さっそくゲル状の姿から人間になっていきたいと思います。

 洗顔は水だけで済ませます。理由はわざわざ洗顔フォームを使う時間がないのと、給湯機が稼働してからお湯が出るまでの時間が惜しいからです。

 歯もそのまま磨きます。寝癖が付いていれば蛇口から出てきた水を髪に塗りたくります。今日は寝癖がマシなのでそのままです。

 ここで時計を確認します。始業5分前に会社に到着できる電車がホームを出るまであと20分。まずまず余裕があるので、お化粧もしちゃいましょうか。

 

・服を着る

 ここまでできていれば社会人として最低限の身支度は出来ていると考えています。わたしの考える最低限とは「今日は勤労する意思があるという意思表示が出来ている」ということです。どれだけギリギリでも、顔を洗い、歯を磨き、なんらかの服を着て、定時までに会社に滑り込めれば社会人合格です。もっともこの合格とは赤点回避という意味なんですけども。

 でも余裕があるなら60点ぐらいは取りたいですね。

 というわけで本日のコーディネートです。今日は黒のブラウスにグレーのタックパンツにしてみました。黒の喪服感で会社に行きたくないお通夜みたいな気持ちを表現してみました。月曜日の登板率が高い組み合わせです。これに日替わりで着ている紺のジャケットを羽織れば完成です。ベルトの閉め忘れが多いので、必ず確認します。

 ストッキングってめんどくさいですよね。わたしは本当に時間がない日は省略してフットカバーに頼ります。誰も私の足なんて見ないのでね。歩けりゃいいのだ。

 

・メイク

 ここでまた時計を確認。うおおあと10分しかない。急いでメイクポーチを開けます。中身はごちゃごちゃです。なんじゃこりゃ状態です。

 メイクでわたしが目指すゴールは「客と上司になめられない顔」です。これは威圧感と迫力のあるかっこいい顔を作るという意味ではなく、相手に自分を一匹の「大人」として認識させ、不用意な態度を取らせないようにするという意味です。うっかり寝坊した日にすっぴんで会社に行ったら上司に「今日なんか目腫れてない?大丈夫?」と言われました。なめてますね。いつも通りのサイズです~。

 ではさっそくベースメイクとして、日焼け止め兼化粧下地をバッと塗ります。両手でパンパン顔を押さえて整えたら、今度は色のつかない粉をさっと塗ります。これ片栗粉とかでもいいんちゃうかなあと時々思いますがまだ試してません。

 眉毛を描きます。もとから眉が濃いのでこの工程は色が付けばオッケーです。チークは面倒かつ、失敗するとリカバリーに時間がかかるので省略。

 アイシャドウは茶色い何かをバッと指で塗って、ラメっぽいやつを上からわっと塗ります。一重なので二重幅とかそういうものは意識しなくていい分、雑にやれてラッキーです。当社比ですが、光るものを身に着けている方が自分のテンションが上がって勝気になれます。カラスと一緒です。

 最後にアイラインを引いて、上げてないまつげにマスカラを塗りたくったら完成です。このふたつは目の存在感を増す上で結構重要です。見られると思うと人の行動は抑制されるらしいですからね。目をくっきりさせて損はないと思います。お前を見ている。

 

・髪の毛

 ショートヘアかつ剛毛なので、起きた瞬間のコンディションですべてが決まると言っても過言ではない。逆に、今更なにしてもどうにもならないのでそのまま出かけます。気が向いたらバームかオイルをもみこんで出勤します。この整髪剤をチョイスにしたのはそのあと手を洗わなくても罪悪感が残りにくいからです。

 

・靴を履く/忘れ物の確認

 大丈夫だよね、何も忘れてないよね。

 ハンカチと鍵は何回も忘れたりなくしたりしたので玄関にストックを置くようにしました。あと財布と携帯(社用)があれば、まあ仕事に支障はないでしょう。

 靴はすべて黒で3,000~5,000円台の安いもので揃えています。この色なら服を選ばないし、価格帯も履きつぶすのに抵抗のない値段でよしです。だいたい3足を履きまわしています。本当は5足欲しいところですが、置き場所がないので我慢しています。

 

 それでは、ながながとお付き合いいただきありがとうございました。電車の時間がやばいので、これにて失礼します。この動画が参考になったという人はチャンネル登録、よろしくお願いしますね~。

 行ってきます!

パーティーを止めるなよ、止めるなよ、いや止めろよ(ヒプマイ)

※ヒプの世界にいるとも限らないモブが主語です。

 

Q.MC GIGOLO

 はじめてお便りします。GIGOLOのラジオ、いつも聴いてます。リスナーのももこと申します。
 通勤中に一二三くん(と呼んでもいいですか?)の曲を聴いて、かっこいいラップに癒されています。最近リリースした「パーティーを止めないで」も、すごくカッコよかったです。何周もリピートしてます。
 一二三くんは「ホスト」って職業にきっと誠実に向き合っているんですね。お店の一二三くんはこんな感じなのかなと思いました。
 ホスト、わたしはいったことないんですけど、ひとときの夢を売るって、大変な職業だと思います。有名なテーマパークに行ったときにも感じたんですけど。夢を見せさせる人は、上手に夢の中に溶け込まなきゃいけないから、素の自分に戻るタイミングがなくて疲れちゃうだろうなって思います。
 一二三くんは、夢が夢であることをごまかさないで夢を見せてくれるから、本当にすごい人ですよね。そういう、一二三くんのすごいところが、今回のリリックには詰まってるなと思いました。

 例えば「パーティーを止めないで 僕の魔法が解けたら君と会えなくなる」ってフレーズなんか、すごく好きです。
 考えてみると不思議なフレーズですよね。パーティーの間だけなんですね、一二三くんと会えるのは。なんだかシンデレラみたい。しかも魔法がかかってるのは、私たちじゃなくて一二三くんなんです。
 一二三くんがどういう思いでこの歌詞を書いたのか、みんな気になってると思います。
 そして、魔法が解けたあとの一二三くんの姿を、知りたいと思っているのではないでしょうか。

 「どっかでいつか君に出会い スーツを脱いで愛し合いたい」って歌詞にもあるように、一二三くんは、心のスーツを脱ぎたいって言ってるんだって、解釈してるお姉さんもいると思います。パーティーを続けながら、この人の前なら素に戻れるプリンセスを探しているんだって。「過去の己との試合」に勝って、私たちに素の自分を見せてくれようとしているんだって。
 でも、全然逆のことを言いますけど、一二三くん、本当はあの曲で無理してるんじゃないかなって、わたしは思ってるんです。

 パーティー、本当は止めてほしいんじゃないですか。誰かに。

 だって、パーティーの間はスーツを脱げないじゃないですか。
 想像ですけど、夢を見せる人は、夢の中に上手に溶け込まないといけない。だから、パーティーの最中に突然スーツを脱ぎ出すなんて真似、できないんじゃないかと思うんです。夢を見せることのプロである、夢の主人の一二三くんだったら、なおさら。
 「魔法が解けたら君と会えなくなる」その魔法が解けた後の姿を、パーティーで出会った女の子達に見せることは、素の一二三くんの気持ちがどうであれ、プロフェッショナルの精神が許さないんじゃないですか。

 全部想像です。
 でも想像できるんです。

 わたし、この間会社サボったんです。どうしてもベットから起きられなくて。
 別に理由もなかったんですけど、なんかつかれちゃって。お腹いたいって嘘ついて休みました。
 ベランダで吸ったタバコが美味しかったです。職場はもちろん、友達の前でもキャラがあるんで普段は絶対に吸えないんですけど。
 「従順な部下」「職場の若い子」「羽目をはずさない真面目な友達」の着ぐるみを脱いで、あぐらをかいて吸うタバコは、めちゃくちゃに美味しかったです。

 だからね、一二三くん。
 いちリスナーのわたしがこんなこというのもお門違いかもしれないんですけど。
 踊りたくないときは、足を止めてもいいんじゃないかと思います。
 夢の中の人で居続けるのは大変だから、
 朝が来る前に帰っちゃってもいいと思います。

 ラジオの投稿なのに長文失礼しました。
 これからも応援しています。


A.仔猫ちゃん、お便りありがとう。
 心配してくれてありがとう。僕は大丈夫。
 ただちょっと、病的に恋というものに憧れてしまっているだけなのさ、君との恋にね。
 だからまだ止まれないよ。

 あと、熱の入った質問嬉しいよ、あんまり長いからこのコーナーももう終わっちゃうけど。ははは。また来週ね。