終わらす ための 師走
しわっす。
「終わり」のもたらす効果
今年もまた12月がやってきた。
1年のうちで一番好きな季節は12月だ。街が華やかだったり、ボーナスが出たり、イベントや連休があったりするのもそうなのだが、何よりうれしいのは「終わり」が来るというところだ。
仕事面では、もう年内にやれないことは一回置いといて来年から手をつけようだとか、年内に終わらせられれば多少手を抜いてもいいよだとか、「終わり」があることでタスクと締め切りの連鎖から束の間解放された気分になる。年内の最終日に掃除をするのも、色んなものを捨てて日常から解き放たれる感じがして気持ちがいい。
プライベートでも、今年も終わるから一回会っとこうか、飲みに行っとこうかなんて、いつもなら起こらないようなイベントが発生する。「終わり」がもたらす解放感によって心理的ハードルが下がった結果かもしれない。年末年始を挟めば有耶無耶になるだろうと思ってか、しばしば胸襟を開いた話が聞けるのもうれしい。
終わることができる、というのは素晴らしいことだ。どうにかここまでは間に合った、下手くそなりにやり切った、だからもう自分は解放されていい、という気持ち。毎年この3週間くらいが、いちばんキラキラしたマインドで生きていられる。人生は楽しいと思える。
でも、サラリーマンになる前はそうでもなかったはずなのだ。どちらかというと、夏や春の長期休みの方が友だちと遊べるから好きだった。イベントごとのない純然としたお休みは、心から安らげる時間だった。刺激のない穏やかな日々を満喫しながら、どこかでまた学校が始まることを待ち望むのも楽しかった。
ああでも、年度末や卒業前のちょっと手持ち無沙汰な時間は、やはり昔から好きだったかもしれない。卒業という儀式がなくなって、手近な「終わり」がなくなった結果が、年末が楽しいという感覚に結び付いているのかもしれない。
もちろん、こんなことを言っていられるのは年末年始がある仕事をしているからで、わたしが何にもしなくても世界が回るという状況に甘えていられるからなのかもしれない。その年末年始に働いている人からしてみれば、いいご身分ねという話なのかもしれない。こんなんだから、わたしは一生、土日休みの仕事だけはやめられないと思う。
もしも人類最後の日に
突拍子もない話になるが、たとえば地球の終わりの日が予測できたとして、その最期を待つ時間はどんなふうになるだろう。
その時はもう、年末の比じゃないくらいに誰もが働かないんだろうなと思う。インフラは止まってて、何日も歩いて移動しないと遠くの人には会えなくて、多分電気も止まったりしてるからオンラインで挨拶することも難しいかもしれない。それに食べ物屋さんだって早々に閉まってしまうかも、と考えると、最期の晩餐はあまりおいしいものは食べられないかもしれない。
でも、と立ち止まる。案外人間は物好きな生き物で、最期の最期まで会社に行ったり、物を売ったり買ったりするのかもしれない。
だって、年末のキラキラ感だって、年末の最後の数日には消えてしまうのだ。家でぼーっとしてる時間は、安らぎにはなるけど、輝きがない。最後の数日心置きなくだらだらするために、やり切った!と言えるところまで曲がりなりにも頑張ってみる。そういう時間が「終わり」を待つ時間を少し優しくするのかもしれない。
この時期になると、そうやって「終わり」の日のことを想像する。あるいはそれは星の終わりでなくて人生の終わりの日かもしれない。わたしがどうやって死ぬことになるか、まだ想像もつかないけれど、その時は今ごろの街のイルミネーションくらい、キラキラと人生を楽しんでからさよならしたいものだ。
さあて、明日も仕事。