厠草子

これで尻でも拭いてください

思うこと

あの表現はたしかに秀逸だった。「絵から自分を罵倒する声が聞こえた」。

傑作に打ちひしがれることはあっても、その偉大さに悪意を感じることはない。それが己を攻撃しているという「被害妄想」は、あの悲惨な事件の犯人のあまりにも捻れた、身勝手な、犯行動機を思わせる。


しかし「妄想」症状そのものは、決して即時犯罪につながるものではない。

そりゃあそうだと思うかもしれない。水をさすなと言われるかもしれない。そういう人の中でも、比較的聞く耳を持ってくれそうな人に、わたしは話をしてみたい。

 

 

あの作品を読んだとき、あの男が現れた下りを見てあなたはどう思っただろうか。

「うわーあり得るな」「理不尽な犯罪を犯す奴って自他が曖昧になっててどっか壊れてそうだもん」「こんなやつに殺されちゃたまったもんじゃないよ」「現にニュースで見るしなぁ」「こわいこわい」「いや、あえて責任能力のない人を出すことによって表現をマイルドにしているのか… あの事件の犯人まんまで書くわけにもいかないからな」

これはうっすらとしたわたしの感想をあえて言語化したものだ。

偏見満載でひどいものだ、でも他の人だってそんなに遠くないんじゃないかと思う。今回の件に関しては、こういう感想を持っていた側としてはバツが悪い。

 

だから、だってそうじゃん、と言い返したくもなる。

「だって被害妄想が動機で殺されるなんて最低だろ」

それはそうだ。そしてそれは少なからずあの事件に重なる感想じゃないかと思う。

あんな素晴らしい作品を生み出した人たちだからこそ、なぜ殺されることになったのかという怒りが、悲しみが、あの時多くの人の胸に去来したことだろう。わたし自身も京本と亡くなった人々を重ねて、その時の思いをまざまざと思い出した。

いやむしろその時以上の強さで、新たに胸に抱き直したと言ってもいい。


「作品が自分を罵倒しているなんて幻聴、理不尽な妄想以外の何物でもない」

それもそうだろう。自分が悪くないのに殺されるなんて死んでも死に切れない。

まして京本は藤野にとってとても大事な友だちで、これから大きく飛躍するクリエイターでもある。彼らの背中をずっと追ってきた読者は、その先に続いているはずの輝かしい未来が理不尽に途絶えてしまったことに、残酷だという思いを抱くんじゃないだろうか。

 

確かに犯行は理不尽だった。現実でもフィクションでも。

じゃあその「作品から罵倒する声が聞こえる」現象そのものは、犯人の理不尽さ、捻れた嫉妬心や身勝手な憎しみに100%由来するものなのだろうか。

 

わたしは無知だったので、当事者から声が上がるまで、それが「悪意なしに起こりうること」であるということを意識していなかった。それというのは「幻聴」のことである。そしてその精神症状には、不安に由来して起こり、自分を否定する声が聞こえてくるものだってある。


知らないものと等式は結べない。結べるものと結ぶしかない。それに、この作品はまるであの事件を焼き直したような展開なのだから、結ぶ先は一つしかない。

自分の人生の苦悩が、絵から聞こえるありもしない罵倒という形で現れる。その構図は、怒るべき相手を間違えている、適切な対処を間違えている、あの事件の犯人の理不尽な憎悪を見事に翻案しているように見えた。


ただ、実際に起きた犯罪、それもどうあったって正当化できないように思える身勝手でむごたらしい犯罪者役を、それ自体によって犯罪に至ることのない精神症状をともなった人物に重ね合わせると、当然ぴったりとは重ならない。

その症状を伴っていても、罪を犯すに至らない人、ただただ苦しんでいる人が、ひと握り、いやもしかしたらわたしが思っているよりずっと沢山存在しているからだ。


精神的な不調や特性と犯罪との関係は、専門家によって慎重に議論されている。そこについては門外漢なので言うべきことはない。もっと勉強しなければならないなと思うばかりだ。

ただ、かつて精神を病み、電車の乗り方が分からず路上で右往左往し、やっと入れたホームで泣きながら病院に遅刻の連絡をした者として、思うところはある。


人は病みたくて病むのではない。会社や学校に行きたくなくて行かないのではない。病みたくないのに病むし、行きたくても行けないのだ。

それを個人の弱さに還元する悲しい文化は今もなお残っているし、立居振る舞いに変わったところが目立つと遠巻きにされる現実はある。

一方で、他人にすり減らされ、社会で決められたラインにうまく並べないのは、それを強いた他人や社会にだって責任があるんじゃないの、という考え方も、以前より支持を得ているように思う。

そういう苦しみの延長線上、もしくは同一線上に、現実にはあり得ない声や視界に苦しめられるという症状もあるんじゃないだろうか。体験した事がないし、つい遠巻きにしてしまうし、無関心になってしまう自分がいるにせよ。

苦しみ自体に誰かへの悪意があるわけではない。そう言われたら誰だって頷くんじゃないだろうか。

それをすっかり忘れて「そういう描き方」として無批判に受け入れてしまうことは、症状に苦しんでいる人をさらに追い込むことになるのではないか。

そう思い至って初めて自分の無関心さを恥ずかしく思った。人を傷つけてしまうことはもちろん、自分の中の差別感情のようなものに全く気付けなかったことがおそろしかった。わたしが無批判に受け入れた価値観は、他のひとたちも受け入れて、やがて大きな世論という海になる。

その海に投げ出される当事者を作ることは、彼らをさらに孤独な世界に閉じ込めることのように思えた。


そんなことを書くと「殺したくないのに殺してる、なんて話も成立するのかよ」とせせら笑う野次が聞こえてきそうだ。そりゃあその通りだと思う。とんでもないものを奪っておいて、そんな言い訳は通用しないよ、とわたしも思う。


ただ、これはもう本題とはなんの関係もないわたし個人の思いだけれどーー人を殺したくて殺す人間なんて、本当にいるんだろうか。

いろんな選択肢を検討する余地があって、その中から「人を殺す」を進んで選ぶ人間なんているのか、その行為に及ぶのは「それしか選択肢がないから」ではないのか。

わたしもとっても嫌いな人間のことを考えるとき、選択肢の中に「殺す」を入れこそするが、実際にその行為に及ぶことは一切ない。「気晴らしをする」とか「自分を大切にしてくれる人のことを考える」とか「悪口を吹聴する」とかいう選択肢が取れるからだ。

だから、京本を殺した本当の犯人は、犯人をあそこまで追い込んだ事象のひとつひとつ、それに関わっていた数多の他人なんじゃないかと、個人的には思う。


「本当に殺したくて殺したんだろうか」それはあの作品の中に回答を求めるべきことじゃない。作品を読んだ我々が考えることだ。

だからわたしも勝手にそんなことを考えている。そしてわたし個人の考えに基づいて、そういう非常に微妙な問題と、ある人たちの持つ特性が安易に重ねられてしまうのは、あまり良いことじゃないと思っている。間違ってもキャンセルカルチャーを支持したいわけではない。今回はあまりにも想起される事件が凶悪で、むやみに重ねられる側が嫌がるのも当然だろうと思っただけだ。

 

余談だが、わたしはとある宗教の信者の2世でもある。だから特定の宗教の特徴を踏襲した「カルト宗教由来の犯罪グループ」みたいな表現は、やっぱりちょっとモヤっとする。「宗教に縋るオツムの弱い人」みたいな言い草も、正直好きじゃない。

当事者の何を知っていてそんな事が言えるのか、と思うし、こちらの葛藤を知らずに土足で踏み込んでくる浅はかさにうんざりする。

立場が変われば誰だってそういうもんだろう。

 

閑話休題
あの見事な翻案が日の目を見なくなることに少し残念な気持ちもあるが、そこに固執する必要もない。犯人のセリフが変わったって、作品から失われた要素は微々たるものだ。むしろそれで傷つく人が減るなら変更もやむなしだろう。そのあたりは当然作者や出版社も天秤にかけて考えていると思う。

変更後のセリフだって、決して作品の質を貶めてはいない。怒りの表現がストレートになったところで作品は普通に成立する。むしろあの形に収められたところに作者の手腕の確かさを感じたくらいだ。

(余談だが、先生は大多数の意見に圧殺される形で表現の変更を余儀なくされた、というのは少々先生に失礼ではないかと思う。わたしたちがちょっと考えてみたようなこと、あの漫画を作り上げた人ならば考慮しないわけがない。寄せられた意見の量は判断材料になっただろうが、あの処置はいろんな事情を考え尽くした末の本人の意思だと思いたい)


だから本当に、思うところはひとつだけだ。敵を間違えるなという話だ。

 

あの事件による、大勢の人の悲しみを束の間救済してくれるような作品だった。クリエイターを勇気づけてくれる内容だった。今回の件はそれを否定するような話じゃない。楽しい気持ちに水をさした人は、決してそれを否定したいわけじゃない(というか、作品の感想とキャスティングへの批判は切り分けて語るべきだろう)。

ただ一部の表現に悲しんだ人がいて、作者や出版社はその声に応える選択をした。それであなたの読書体験から何が失われたのだろうか。

何かが失われた、損なわれたように感じたなら、それはどこに由来するんだろうか。

それは、今苦しんでいる人を無視してまで守るべきものなのだろうか。敵は、戦うべき相手は、本当に私たちの前に立ち塞がっているのは彼らなんだろうか。


それは凶悪犯罪への怒りかもしれないし、キャンセルカルチャーへの苛立ちかもしれない。

はたまた自分の創作活動への不安かもしれないし、誰か大切な人を失った悲しみかもしれない。


わたしも敵を見誤らないでありたい。「ルックバック」の、あの藤野の背中を見せられた今、強くそう思う。