厠草子

これで尻でも拭いてください

怒られたときに「○ね」と思う効能(兼・中島義道『ひとを〈嫌う〉ということ』感想文)


 あいつ○ねばいい。絶対○す。必ず○す。

 

久しぶりに怒られた

 マルチタスクの多い部署に勤めている。やることが多い。しかも登山のごとく遠大なプロジェクトじゃなくて、100mダッシュみたいな細けえ仕事がいっぱいある感じなので、なお多く感じる。タスク管理がすなわちペース管理・品質管理に直結するので、昔から宿題の手をつける順番を間違えがち、かつケアレスミスも多いこどもだったわたしにはあまり向いていない。


 ので、よくミスをする。


 恐ろしいときには会議を2週連続ですっぽかしたりするし、明日終わらせないといけない仕事に今日から手をつける羽目になったりする。繁忙期じゃなければリカバリーも効くが、この年末年始に忙しくならない企業なんかないので、ここ数ヶ月はミスだらけ(そして残業だらけ)で生きてきた。


 ので、最近先輩からちょっとしっかりめに怒られた。

 まあ当然である。


 しかし、その日のわたしにとっては全然当然ではなかった。もう在らん限りの力を使って仕事しているのに、なんでわたしが怒られなければいけないのか。別に今破った締め切りはいわゆる「本当の締め切り」ではないし、そもそもわたしの仕事が予定通りに終わらなかったのは、その前にあったお前の仕事を手伝うのに時間がかかったからだろうが。第一わたしのいま抱えている仕事の相手はそこそこ厄介な人たちだし、上司からもそこには気を遣っとけと言われているから普段より進めるのに時間かかってもしょうがないわけで。別に無駄な仕事してないんだよこっちは忙しいんだよそもそもお前らに気を遣って色々雑用引き取ってるんだからちょっとは大目に見ろよお前が繁忙の時はフォローしただろうがくそが。


 いやーマジで○んでくんねぇかな。


 という感想が頭をよぎるようになるのにそう時間はかからなかった。ないわーマジでない。今後一切こいつに心開かないわー。お前いなくても仕事は回るから(絶望的に人のいない部署だからほんとは回らないけど)もう明日から会社来るなよくそ帰り道に事故に遭ってしまえ。

そんな呪詛が渦巻いてその日はあまり仕事にならなかった。

 でもまた怒られたら悔しさで憤死してしまいそうなので、それなりに遅くまで残業して仕事はやっつけた。あんまり残業してると仕事ができないやつみたいだから、ちょっと早めにタイムカードも切って。


 で、である。

 隣の席の先輩を呪い○しそうなほどに恨んでもう二度と心を開くまいと誓ったとしても、否応なしに日々は続いていく。毎日顔は合わせるし、相手が普段通り接してくれば(そしてわたしからも特に敵意をあらわにしなければ)、だんだんと関係も修復されてしまう。

 案の定、1週間と経たずわたしの気持ちは軟化してしまった。「えー先輩まじ天才っすねー」とか、お世辞か本心かわからない感じでするっと言えてしまう。先輩が実家の猫の動画を見せてくれれば喜んで見るし、目があったら反射でついにこっとしてしまう。

 怒ることすら続かないのか、と自分の一貫性の無さになんだかがっかりしてしまう。

 が、しかし。それでも一度相手を頭の中で怒りの限り呪うことには意味がある、と思う。

 そう思わせてくれた本が『ひとを〈嫌う〉ということ』(中島義道/角川文庫)だ。

 

〈嫌い〉の豊かさを考える

 全体をわたしなりに要約すると、

自他共に認める嫌われ者のおじさんが、〈嫌い〉について考え尽くし、「人が人を嫌いになるのは自然なことで、そこには豊かさがある」と発見する本

 である。

 てっきり心理学の本かと思って購入したところ、初っ端からとにかくおじさんがひたすら考えてる本だったので、最初はだいぶがっくりきた。主観の本かよ。客観をくれよ。科学とか医学とかで安心させてくれよ。

 だが、読み進めていくと、だんだん著者の言ってることに納得している自分に気づく。自分が嫌われたエピソードだけ(ということはなくさまざまな文献をきちんと引用しているが)でここまで〈嫌い〉についての洞察ができるものなのか、と。

 このおじさんの渾身の洞察本で、特にいいなと思ったところ、それは「〈嫌い〉は結晶化する」というくだりだ。

 スンダールは「目に触れ耳に触れる一切のものから、愛する相手が新しい美点をもつことを発見する心の働き」であるところの「愛の結晶化作用」を説いたが、〈嫌い〉にもそれはあてはまる、と。

なんとなく気に食わなかった人が、あるとき突然結晶化作用により大嫌いになることは誰でも知っています。それまではばらばらであったその人の属性が、突如見事なほど組織的に「嫌い」の要因へと変質してゆく。


では、どうしたらいいのか。結晶化の方向に走りだしたら、まずは冷静にその成りゆきを観察すること。しばらくは、あまり抵抗しないで結晶化するにまかせる。はたして、気がつくと相手はありとあらゆる嫌いな属性を担った者、つまり大嫌いな者として、あなたの前に現れているでしょう。


しかし、どこまでも「嫌い」が肥大してゆくわけではなくて、あるところまで来ると、キャパシティが限界で同じところをぐるぐる回っている感じに至ります。相手の「嫌い」の原因を五〇並べてもう出てこない。そのうち、それら原因同士が崩れはじめ溶解しはじめて、何が何だかわからなくなってくる。結晶化は止まったのです。

 なんかもうよくわかんないけどあいつ嫌い、すごく嫌い!みたいな状態である。坊主憎けりゃ袈裟まで憎い、とも言う。著者曰く〈嫌い〉という感情にも段階があり、それが行き着くところまで行き着くと、それ以上の段階には進まなくなるという。

 そして、そうなると人は冷静に〈嫌い〉を眺められるようになり、そこから学び(という言い方が説教くさければ知見・納得・理解など)が得られることがある、と続けている。

ゆっくりと時間をかけて、その発酵を待ち、そこから「俺(私)はこういうふうにとらえられているんだなあ」とか「こういうふうにひとって誤解するんだなあ」とか「こうしても、ひとってやはりわかってもらえないんだなあ」とかさまざまな勉強をする。少し冷静になりますと、自分に対しても多少批判的に「俺(私)ってこういうふうにひとを裁いてしまうんだなあ」とか「こういうとき、俺(私)って聞く耳をもたなくなるんだなあ、依怙地になるんだなあ」とか、さまざまなことが見えてきます。

 これはなるほどそうであるなあと思う。

 事実、わたしはこの度の先輩の叱責に大いに腹を立てたが、感情が鎮静化すると「それでもわたしは学ぶ必要があるし、この人には学ぶべきところがある」という気分には多少なった。

 

 そして先にも書いた通り、本書は「人が人を好きになるのと同じくらいに、人が人を(すこぶるしょうもない理由で)嫌いになることは自然なことである」と説いており、その自然に逆らおうとする道徳的な人はむしろその行為によってさらに苦しみや困難を作り出していやしないか、と投げかけてくる。

 確かに自分も「でもあの人にも正しい部分はあるし…」とか「こんなことで恨むなんて子どもっぽいかも…」とついつい考えてしまいがちだが、無論余計に苦しくなるし、そんな弱々しい理性で怒りから立ち直れたことなんてない。

 むしろ、一度〈嫌い〉に全力で囚われてみることで、逆にその馬鹿馬鹿しさが怒りや恨みを鎮火してくれる、という経験の方が多い。

 

 もちろん本書の論はこれだけではなく、嫌いの段階をつぶさに分析してみたり、ケーススタディ的にエンタメ作品を例に「どう〈嫌い〉になっていればより豊かになるか」というIFを考えたり、〈嫌い〉にぶち当たるのはどうしようもなく辛いけど、どう折り合いをつけているのかなど、あらゆる角度から〈嫌い〉を考え尽くしている。おじさんの渾身の考察は本当にリッチで、読むとちょっと人間についてわかった気がするし、楽になれる気がする。

 

怒られた時に「あいつ○ね」と思うことの効能

 まとめると、著者は〈嫌い〉の結晶化を待ち、だんだんと相手への憎しみや軽蔑が増していく過程を止める必要はない、何故ならそれは自然なこと、豊かなことであるからと書いている。

 そこにわたし個人の見解を付け加えるなら「あえて自分を甘やかして、いきなり相手をとことん〈嫌い〉になってみるのも、案外悪くないんだな」と説いてみたい(誰に)。

 それは「一気にフルパワーで嫌うこと」の効能、言い換えれば「怒られた時に○ねと思うこと」の効能である。


 もちろん、自分から怒りに火を焚べるわけだから、リスクは覚悟しなければならない。その火はずっと消えないかもしれない。〈嫌い〉になりすぎて2度と元の関係に戻れないかもしれない。実利のある人間関係を逃すかもしれない。

 でもきっといつか結晶化は止まり、敵だとしか思えなかった相手が同じ人間であることを知る日は来る。どんなにアホでもわれわれはそれなりに経験から学ぶ生き物であることに加えて、新たに〈嫌い〉になる人はどんどん増えていくからだ。

 かく言うわたしは人生の中で「こいつはいつか○すリスト」というものを作っている。ランキングのベスト3は常に名前と罪状が言える状態にあるのだけれど、そのランキングすら時間と共にどんどん入れ替わっていく。この春にはついに1位が入れ替わった。M-1もびっくりの衝撃展開が人生には常にある。

 でも、それはきっと幸福なことだ。〈嫌い〉が新陳代謝していき、いずれ今憎んでいる人のことも瑣事になる。塵芥のように思える日がくる。そういう形の希望もある。

(また1位タイとか、参加者が全員高得点のとんでもないレースが始まるかもしれないが、それはそれとして)

 うまく生きるために中庸やバランスが必要だと叫ばれる昨今、そうあれないわたしのような人には、ひょっとすると安心して苛烈になることが突破口になるかもしれない。「安心」がポイントで、〈嫌い〉が波及したり人に指さされたりしないところで花火のようにぶち上げるのがいい。念のため。


 人間が多面体であるように、誰かへの想いというのはいつだってマーブル模様だと思う。

 あいつがきらい、気に入らない、許せない。でもちょっとした優しさがうれしかったり、稀に「こいつなかなかやるな」とも思う。あいつは好かない、ああはなりたくないと思いつつも、その人の小さな親切に助けられる日がある。逆も然りだ。それはきっと自然なことだ。


 だから、先輩。わたしの生活にまあまあ大切で必要なあなたの死を、たまに心から願ってしまうことを許してね。尊敬してるけどたまに殺してやりたいくらい憎んでしまうことも許してね。長い人生の旅路の中で、憎しみも怒りもいずれ瑣事になっていくことをわたしたちはきっと知っているから。


 あーでもわたしのことは嫌いにならないでほしいっすね。ははは。