厠草子

これで尻でも拭いてください

現代の忍!通勤隠密メイク🥷

電車で堂々と化粧がしたいんだよ

 すべての現代人が考えてることだと思うんですけど、朝は1秒でも長く寝たいですよね。

 そう考えた時、朝ごはんを家で食べないは大前提として、どうしたって身支度の時間はある程度確保しないといけません。

 そこで、本来なら+αであるにもかかわらず、やってくるもんとされている「メイク」をすべて通勤時に頑張ることで、時間短縮を図りたいと考えました。

 ただ不思議なことに、電車で化粧することは社会的に良しとされていません。化粧道具を持って手鏡を覗き込んだりしようものなら、どうしたって「公共の場で化粧を始めるだらしない女」という烙印を押されてしまいます。

 わたしはもう鉄道会社が女性専用車両で化粧することを認める声明を出すべきだと思っているのですが、カスタマーハラスメントだと思われるのもまずいですよね。まずは自分でできる範囲のことから始めてみようと思い、個人的な取組をここに記します。


色つきリップクリームをぐりぐり塗る

 序の口ですね。歩きながらぐりぐりとやります。ポイントは何度かタイミングをみて重ねることで、一度塗りではパンチの弱い色つきリップも、シアー系の口紅くらい発色してくれます。全体で見た時に「メイクしてる感」を引き受けてくれるパーツなので、これでもか!と目立たせていきます。

 ブリックブラウン系がわたしは好きです。いわゆる「抜け感」のあるメイクをする方はだいたいくすんだオレンジとかレンガみたいな色の唇をしています。


日焼け対策という虎の威を借る

 いまやUV対策は身だしなみのひとつ。よって化粧のうちに入りません。公共の場で塗り直しするくらいは問題ないはずです。

 特にコツなどはなく、路地を歩きながら、普通に塗ります。陽が出ている日の方がそれっぽいですが、雨の日は傘で隠せるので、いずれにせよ大胆に塗ってしまいます。運動部の子が日焼け止め塗り直す感覚です。

 自分は色のつかないタイプを使用していますが、トーンアップ効果のあるやつだとなおメイク感があるのだと思います。歩いていると鏡を見ることができないので、ノールックで塗ってムラにならない程度の色だとちょうどいいかもしれません。


汗拭くふりしてパウダーをはたく

 少しハードルが上がりました。パウダーパフは明らかに公共空間に馴染みませんが、寝起きスキンケア後に日焼け止めを塗った肌を、通勤中になんとかしてパウダーで固定したい。テカテカ感が減るだけで、かなりメイクしてる感じになるはずです。

 まず鞄の中などに隠しながらパフにパウダーを載せます。次にハンカチを用意して、手に持った時に隠れる指(だいたい親指になると思います)に、さきほどのパフを引っ掛けます。

 それを顔に持ってくる。

 どこからどう見ても、汗を拭いているように見えるはずです。

 こちらもノールックで仕上げても大丈夫かと思いますが、スマホのインカメラを鏡代わりにすると、よりスマートかと思います。メガネの人は目周りの固定を諦めたほうが無難です。メガネ外して汗拭く仕草はちょっとおじさんぽいからです。


鏡+ペンシルアイブロウはシステム手帳に隠せ

 リップ、ベースときたら次は眉毛です。

 唇の血色が「いきいきしてる感」の演出だとしたら、眉は「ビジネスに臨む感」を演出するものだと思います。眉毛がちゃんとしているだけで、身だしなみを整えてきましたという印象を作れるので、なんとかして描きたいところ。

 ただ、大前提でも書いたとおり「メイク用品+鏡+覗き込む姿勢」が揃うと、「公共の場で化粧を始めるだらしない女」の構図ができあがってしまいます。

 そこで使いたいのが手帳と、ペンシルアイブロウです。

 手帳を開き、コンパクトミラーを隠し持ちます。手帳を開く角度は90度くらいがちゃんと隠せて安心です。続いてペンシルアイブロウを「ペンかな?」と思わせる感じで持ちます。この時、メイクポーチよりもリュックのポケットからすっと出てくる方がそれっぽいです。

 手帳に目を向けて、長考するふりをしながら、自分がまわりの視界に入っていそうかどうか確認します。

 全員がスマホに目を落としている、あるいは目を閉じているタイミングで、そっとペンを眉に走らせます。これをゆっくりゆっくり繰り返します。

 わたしが実践するときは「隣の人にバレないこと」をとにかく優先しています。隣の人に「うわ!服についた!」と思われないことだけ気をつけていれば車内トラブルは防げるかと思っています。


目元トラブルを装って下瞼にアイシャドウ

 実践できたらラッキー。目元のあしらいの有無で結構印象に差が出ます。

 鞄の中でアイシャドウを人差し指と中指につけます。ミラーもしくはスマホの内側カメラで顔を確認できる状態にしておきます。

 人差し指を目のふちにそっと当てながら「あれ、なんかまつ毛入っとらんか?」みたいな顔をします。「こっちも調子悪いんだよな〜」みたいな顔で中指を反対側に当てます。適宜左右に動かして、下瞼全体にアイシャドウがのるようにします。

 載せる位置は、あしらいがあることで最も盛れるところにします。一重で割と目の横幅があるわたしの場合は下瞼です。ベージュ系の控えめキラキラ系シャドウがいちばんやりやすいです。

 メガネの人は外さないでやるほうが目元トラブルを装えますが、手元が狂うとレンズにキラキラが付きますのでご注意ください。


おわりに:現代の忍になろう!

 これで会社に着くころには、うっっすいメイクとはいえ、かろうじてちゃんと身支度を整えてきた人かのように、体裁を整えることができます。

 一見するとそうとはわからない。しかし日夜人々の目を欺いて、秘密の任務を遂行する存在。「真面目な会社員は」あくまでも世をしのぶ仮の姿。そう、わたしたちは現代の忍なのです。

 上記を実践することで、あなたも現代の忍の仲間入りをしてみませんか?

 なお、徒歩や自転車・自動車通勤をされていたり、通勤時間が短いあるいは満員電車だったりして、正直この方法難しいよという方もいらっしゃるかと思います。そういう場合でも大丈夫な、まるでアハ体験のように会社に着いてから段階的に顔を変えるノウハウについても追って紹介したいと思いますので、その時はまたよろしくお願いします。

 

 

 

女のNOは女にもわからない

 


「はっきり断ればよかったじゃん」?

 


会社に不審者があらわれた!


定時から1時間半が過ぎようというころ、フロアに電話がかかってきた。コール音は受付からのものだ。同僚の女性が受話器をとった。来客らしい。彼女はフロアを出て行った。

他部署に資料を渡す用があり、わたしもその後フロアを出た。受付では、同僚と来客が談笑している。

紫のジャージを着た男性。業者にしてはラフな格好だった。でも彼女はハキハキと受け応えしているし、わたしもすべての出入業者を知っているわけではないので、特に違和感を抱かず通り過ぎた。


他部署の偉い人に冷や汗をかきながら資料の説明をした。解放されるまで5分もかからなかった。自分のデスクに引き返す。


まだふたりは会話を続けていた。ずいぶんと盛り上がっている印象だ。筋金入りの隠キャなので、空気になれるくらいの薄い存在感を演出すべく、視線を落として通り過ぎる。


ふと、男の足元がサンダルであることに気がついた。

 

来客にしてはずいぶんラフだな。もう一度そう思ったのだが、同僚は普段どおりの表情で男に対応している。仕事ができて、物事をはっきり言う彼女のことだ、業者さんの長話に付き合いきれなければ、そつなく話を終わりにするだろう。


受付は狭い。2人の間を通り抜けようとすると、彼女は道を譲ってくれた。呼び止めないなら大丈夫なんだろうな。わたしは会釈をして通り過ぎた。

デスクに戻って、残りの仕事に手をつけ始めると、わたしはすぐに受付での出来事を忘れてしまった。


どのくらい時間が経っただろうか、フロアに他部署の課長が駆け込んできた。


「ねえあの受付の男だれ!? ほっといて大丈夫なの!?」


愕然とした。

同時に、デスクに向かっていた別の女性が、がばっと立ち上がった。


「ですよね!? わたしもおかしいと思ってたんです!」

 

 

ぜんぜん大丈夫じゃなかった


どうやらみんな薄々おかしいなとは思っていたようだった。


「聞いてると話が長すぎるし一方的で、変だなと思ってたんですよ」

「だって汚ねえジャージ着てコンビニ袋持ってたぞ、あの男」

「しかも足元サンダルでしたよね?」

「目つきがおかしかったですよ」

「態度もへらへらしてるし」


狼狽えるわたしたちの間を慌てて部長がすり抜けて、彼女を助けに向かった。

電話が鳴ってから、すでに40分経っていた。


お引き取りを願いに行った部長と引き換えに、「いや〜怖かった〜」と自分の腕を抱きしめながら同僚が戻ってきた。

聞くと「集団ストーカー」の被害を一方的にずっと聞かされていて、話を遮るタイミングを失っていたとのことだった。

「目がバキバキで、ちょっとでも変なことしたら殴ってきそうでさ。たすけて〜ってアイコンタクトしたんだけど、ぜんぜんみんな気づかないんだもん」


ふたたび愕然である。


とうやらわたし以外にもいろんな人が通りかかったらしいのだが、全員ヘルプに気が付かなかったという。

こんなにオフィスに似つかない風貌の男が侵入していると言うのに!

結局、最後に通りかかった他部署の課長が、状況の異常性を素直に受け取ってわれわれを呼んでくれた。彼がいなかったらどうなっていたかと思うと怖すぎる。

とにかく彼女に申し訳ない。不審者に絡まれているところを見過ごしたなんて、同じ女として本当に悔やまれる。頭を下げることしかできなかった。

言い訳がましいが、電話で呼ばれて行った同僚は、なんせ仕事ができた。はきはき話すし、過度な忖度をよしとしない、嫌なことは断るキャラクターだった。よもや不審者に絡まれて逃げ出せない状況だったなんて、同じ部署の誰も考えもしなかった。

そのうえ、遠目から見れば彼女と男は笑顔で談笑しているように見えた。不審者だとは疑いようもなかったのである。

 

 

女のNOは女にもわからない


これが結論である。


ニュースで女性がストーカーや暴行や深刻なハラスメントの被害に遭うたびに、

「はっきり断れば良かったのだ」

「周りに助けを求めれば良かったのだ」

あるいは

「普通はNOと言われれば接近行為をやめるはずだ」

「全員を犯罪者予備軍扱いするな」

というコメントが流れる。


わたしに言わせれば、それは子どもが雲を見て「美味しそう」と言うのと同じ、リアルを知らないから言える絵空事である。


わたしのフロアには男性も女性も、若手もベテランもいた。彼女の拘束されていた40分の間に、だいたいの人は受付を通ったし、話し声も聞こえていたはずだ。それだけ多数の多様な目があっても、「まさかあの人が」「この人は大丈夫」というバイアスひとつで、目の前のアラートを見逃してしまう。

それに人は怯えると、脅威に対して迎合的な振る舞いをする。また極度のストレスにさらされると「凍りつき」と呼ばれる反応も出る。

バイアスの膜を破るくらいの強い「NO」を、脅威を感じている相手に突きつける勇気が、生まれながら全員に備わっているわけがない。じゃなきゃパワハラなんてものはこの世に生まれないはずだ。


だから「はっきり断れば良かったじゃん」なんて絵空事

そう頭ではわかっていたはずのわたしも、いざその状況に置かれると、簡単に呑まれてしまった。


女のNOは女にもわからない。

況んや男をや、と言うつもりはもちろんない(助けてくれた課長は男性だ)。

ただ「はっきりNOを伝えられる」「わかりやすくヘルプを出せる」という幻想を、われわれは改めてきっぱり捨てなければいけないと思う。


あの時の「またそのうち行きましょう」も、

いつかの「ありがとうございます」も、

ついさっきの「ぜんぜん大歓迎ですよ」も、

目の前の「あはは、そうなんですね」も、

まったくぜんぜん大丈夫じゃないかもしれないのだ。


女のNOは女にもわからない。

今日はこれだけ覚えて帰ってください。以上。

 

 

花ぞ(忘れたい)昔の香ににほひける


 久しぶりに使う香水の香りを嗅ぐと、古い記憶が呼び覚まされる。だいたいは、焦燥感とともに。

 

 人が香水を買いたくなるのはどんな時だろう。わたしは、香りのイメージを借りて現実のつらさを払拭したい時だ。

 ある時は怒られてばかりのバイト先に向かう道を、またある時はお金も予定もない虚しい夏の休日を、またある時は、好きな人の好きな人はわたしじゃないという事実を、なんとか耐えられるものにしたくて香りを纏う。それだけで仕事ができるようになる気がするし、空っぽの夏休みを愛せる気がするし、愛されない孤独を自由だと感じることができる。

 もちろんそれは紛い物の自己啓発だから、効果も束の間しか続かない。記憶に残るのはいつも、「この状況を変えたい」と焦る感情だけだ。

 「劇的な出会いで自分は変われる」という期待をしなければいいのかもしれない。フラットな気持ちで好きな香りを選べば、わざわざ嫌な記憶と結びつけなくてもいいのかもしれない。

 しかしそうはいっても等身大の自分にはなかなかときめけないものだ。わたしに相応しいもの、にわたしは惹かれない。それよりも、別の輝いている誰かになりたいと思ってしまう。

 

 香水というツールは、纏うことで理想的なイメージを体現できるかのように語られがちだ。しかし同時に、脚色のできない、いま生きている自分自身の記憶を、香りに仮固定するような効能もある。
 嗅覚は、どうやら脳みそのなかでも、過去の記憶と近いところに格納されるらしい。そういえば大昔の歌にも「人はいさ心も知らずふるさとは花ぞ昔の香ににほひける」なんてものがあったな。記憶を香りに結びつけるのは、いまに始まった現象じゃないんだろう。

 しばらく纏っていない香りの数々は、わたしの焦燥を切り取ったコレクションといっても過言ではない。さっきは、まるで香水にまつわる記憶の方が間違っているような書き方をしていたが、実際にはどれもこれも、香りは正しくわたしの人生に結びついている。

 

 焦っていた自分のことを思い出すから、香水は最後まで使い切れたことがない。だけどひょっとすると、ひと瓶がなくなる頃には結びついた色んな記憶が混ざり合って、正しくわたしの香りになっているかもしれない。

 人の心は移り変わるが、花は昔と同じように薫っている。あの時の焦燥感ごと香りを纏って、何度も今日をはじめるのだ。

服と想いと思い出と:水色のシャツワンピース

 

 シャツワンピースは、多分まあまあ似合う方だ。

 

 おしゃれがわからなかったその昔、最初にクローゼットに招き入れたのはチュニックだった。ワンピースやスカートを履くのは調子に乗ってると思われそうで怖かったし、パンツスタイルでどうおしゃれをしたらいいのかはよくわからなかった。結果、お尻が隠れるくらいの丈のチュニックにジーンズを合わせるのがお決まりの格好だった。うっかりすると20歳くらい上の人に見られかねないセンスだったが、己の見た目に対する自己評価が恐ろしく低かったので、むしろ等身大の装いな気がして安心だった。

 

 でも、やっぱりそれでは満足なんかできなかった。なんとかあと一歩おしゃれになりたい、なんかもうちょっと、若者の間で浮かない感じになりたい。

 その時によく着ていたのがコットン素材のシャツやブラウスだ。ベーシックな服だけど、ほんの少しだけきちんと感が出るのがちょうど良い。

 そんなわけで、シャツワンピースにも親近感というか、昔馴染みに近い感覚がある。

 

 翻って、では今のわたしはシャツワンピースが大好きなのかというと、実はそうでもなかったりする。シャツワンピースに対する感情は、安心できるけど、でもなんかしっくりこないんだよな〜との間を行き来している。

 わたしは非常に真面目な会社員らしい見た目をしている。そのせいか、普通のシャツワンピースを着ると、もうおそろしくプレーンなひとになってしまうのだ。

 具体的には、エッセイマンガでよくあるような、あえて手を抜いて描いたアラサーの共通項を集めて固めたみたいなルックスをしている。直毛でボブくらいの長さの髪をした、ああいう感じ。当然(?)メガネもかけてる。そんな女がプレーンなシャツワンピースを着るとなると、もう何も味がしないパンみたいになってしまう。こんな比喩で理解してもらえるだろうか。

 

 いや、でも別にわたしはわたしの見た目がまあまあ好きだし、ぱっと見だと堅実そうに見えるところも気に入っている。華やかさに欠けるけどこれはこれで使い勝手がいいというか、悪くない。派手な柄のワンピースとかを着ると褒めてもらえるし。初対面でもしっかりした人に見えてお得だし。

 もちろん似たような見た目の人がシャツワンピースを着るのだってぜんぜん素敵だと思う。さっきは味がしないパンなんて言ったけど、裏を返せばそれはシンプルの美しさってことだ。

 だけどそれはわたしのなりたいわたしじゃないんだよな。このわたしのまま、どうやったらシャツワンピースと仲良くなれるのかが知りたい。

 

 今、うちには水色のシャツワンピースが1枚ある。シャツワンピースと呼ばれるものはそれだけだ。確か転職したてでお金がない時期、売れ残っていた春物をたまたま購入したのだ。

 着ると、結構清楚な感じになる。生地が柔らかめで、裾や袖に膨らみの出る形だから、シャツ特有のさみしい印象は多少和らぐ。襟は王道のシャツカラーで、ロングネックレスの収まりがいい。好きなところが多くて、もう購入してから2年ほど経とうとしている。

 今までのものと何かが違うとすれば、裾のボリュームかもしれない。シャツをそのまま長くしたようなストンとしたまっすぐなシルエット、U字の形のあの裾が、思い返せばわたしにはどうしても似合わなかった。体質的にふくらはぎがたくましくなりやすいので、それが目立つ気がするのが気に入らないなのかもしれない。

 何より、綺麗な水色がいい。緑っぽさも赤っぽさも入らない、青い絵の具をそのまま水に溶かしたような色。ティファニーブルーみたいな水色も素敵だけど、今はこの華やかすぎない色味がちょうどいいのだ。着ていて疲れにくい。

 

 色々書いてみたけれど、ひょっとすると、歳を重ねたらまた似合うものも変わるかもしれない。30代まであと3年ある。今しばらくはふわふわした、シャツワンピース「らしからぬ」服とお付き合いしていこう。

 こんな見た目してるけど、わたしけっこうゆるゆるだし、へらへら人に絡みにいきがちだから、これが案外ちょうどいいバランスかもしれないしね。

 

 

 

 

 

 

終わらす ための 師走

 

 しわっす。

 

「終わり」のもたらす効果

 今年もまた12月がやってきた。

 1年のうちで一番好きな季節は12月だ。街が華やかだったり、ボーナスが出たり、イベントや連休があったりするのもそうなのだが、何よりうれしいのは「終わり」が来るというところだ。

 仕事面では、もう年内にやれないことは一回置いといて来年から手をつけようだとか、年内に終わらせられれば多少手を抜いてもいいよだとか、「終わり」があることでタスクと締め切りの連鎖から束の間解放された気分になる。年内の最終日に掃除をするのも、色んなものを捨てて日常から解き放たれる感じがして気持ちがいい。

 プライベートでも、今年も終わるから一回会っとこうか、飲みに行っとこうかなんて、いつもなら起こらないようなイベントが発生する。「終わり」がもたらす解放感によって心理的ハードルが下がった結果かもしれない。年末年始を挟めば有耶無耶になるだろうと思ってか、しばしば胸襟を開いた話が聞けるのもうれしい。

 

 終わることができる、というのは素晴らしいことだ。どうにかここまでは間に合った、下手くそなりにやり切った、だからもう自分は解放されていい、という気持ち。毎年この3週間くらいが、いちばんキラキラしたマインドで生きていられる。人生は楽しいと思える。

 

 でも、サラリーマンになる前はそうでもなかったはずなのだ。どちらかというと、夏や春の長期休みの方が友だちと遊べるから好きだった。イベントごとのない純然としたお休みは、心から安らげる時間だった。刺激のない穏やかな日々を満喫しながら、どこかでまた学校が始まることを待ち望むのも楽しかった。

 ああでも、年度末や卒業前のちょっと手持ち無沙汰な時間は、やはり昔から好きだったかもしれない。卒業という儀式がなくなって、手近な「終わり」がなくなった結果が、年末が楽しいという感覚に結び付いているのかもしれない。

 もちろん、こんなことを言っていられるのは年末年始がある仕事をしているからで、わたしが何にもしなくても世界が回るという状況に甘えていられるからなのかもしれない。その年末年始に働いている人からしてみれば、いいご身分ねという話なのかもしれない。こんなんだから、わたしは一生、土日休みの仕事だけはやめられないと思う。

 

もしも人類最後の日に

 突拍子もない話になるが、たとえば地球の終わりの日が予測できたとして、その最期を待つ時間はどんなふうになるだろう。

 その時はもう、年末の比じゃないくらいに誰もが働かないんだろうなと思う。インフラは止まってて、何日も歩いて移動しないと遠くの人には会えなくて、多分電気も止まったりしてるからオンラインで挨拶することも難しいかもしれない。それに食べ物屋さんだって早々に閉まってしまうかも、と考えると、最期の晩餐はあまりおいしいものは食べられないかもしれない。

 でも、と立ち止まる。案外人間は物好きな生き物で、最期の最期まで会社に行ったり、物を売ったり買ったりするのかもしれない。

 だって、年末のキラキラ感だって、年末の最後の数日には消えてしまうのだ。家でぼーっとしてる時間は、安らぎにはなるけど、輝きがない。最後の数日心置きなくだらだらするために、やり切った!と言えるところまで曲がりなりにも頑張ってみる。そういう時間が「終わり」を待つ時間を少し優しくするのかもしれない。

 

 この時期になると、そうやって「終わり」の日のことを想像する。あるいはそれは星の終わりでなくて人生の終わりの日かもしれない。わたしがどうやって死ぬことになるか、まだ想像もつかないけれど、その時は今ごろの街のイルミネーションくらい、キラキラと人生を楽しんでからさよならしたいものだ。

 

 さあて、明日も仕事。

怒られたときに「○ね」と思う効能(兼・中島義道『ひとを〈嫌う〉ということ』感想文)


 あいつ○ねばいい。絶対○す。必ず○す。

 

久しぶりに怒られた

 マルチタスクの多い部署に勤めている。やることが多い。しかも登山のごとく遠大なプロジェクトじゃなくて、100mダッシュみたいな細けえ仕事がいっぱいある感じなので、なお多く感じる。タスク管理がすなわちペース管理・品質管理に直結するので、昔から宿題の手をつける順番を間違えがち、かつケアレスミスも多いこどもだったわたしにはあまり向いていない。


 ので、よくミスをする。


 恐ろしいときには会議を2週連続ですっぽかしたりするし、明日終わらせないといけない仕事に今日から手をつける羽目になったりする。繁忙期じゃなければリカバリーも効くが、この年末年始に忙しくならない企業なんかないので、ここ数ヶ月はミスだらけ(そして残業だらけ)で生きてきた。


 ので、最近先輩からちょっとしっかりめに怒られた。

 まあ当然である。


 しかし、その日のわたしにとっては全然当然ではなかった。もう在らん限りの力を使って仕事しているのに、なんでわたしが怒られなければいけないのか。別に今破った締め切りはいわゆる「本当の締め切り」ではないし、そもそもわたしの仕事が予定通りに終わらなかったのは、その前にあったお前の仕事を手伝うのに時間がかかったからだろうが。第一わたしのいま抱えている仕事の相手はそこそこ厄介な人たちだし、上司からもそこには気を遣っとけと言われているから普段より進めるのに時間かかってもしょうがないわけで。別に無駄な仕事してないんだよこっちは忙しいんだよそもそもお前らに気を遣って色々雑用引き取ってるんだからちょっとは大目に見ろよお前が繁忙の時はフォローしただろうがくそが。


 いやーマジで○んでくんねぇかな。


 という感想が頭をよぎるようになるのにそう時間はかからなかった。ないわーマジでない。今後一切こいつに心開かないわー。お前いなくても仕事は回るから(絶望的に人のいない部署だからほんとは回らないけど)もう明日から会社来るなよくそ帰り道に事故に遭ってしまえ。

そんな呪詛が渦巻いてその日はあまり仕事にならなかった。

 でもまた怒られたら悔しさで憤死してしまいそうなので、それなりに遅くまで残業して仕事はやっつけた。あんまり残業してると仕事ができないやつみたいだから、ちょっと早めにタイムカードも切って。


 で、である。

 隣の席の先輩を呪い○しそうなほどに恨んでもう二度と心を開くまいと誓ったとしても、否応なしに日々は続いていく。毎日顔は合わせるし、相手が普段通り接してくれば(そしてわたしからも特に敵意をあらわにしなければ)、だんだんと関係も修復されてしまう。

 案の定、1週間と経たずわたしの気持ちは軟化してしまった。「えー先輩まじ天才っすねー」とか、お世辞か本心かわからない感じでするっと言えてしまう。先輩が実家の猫の動画を見せてくれれば喜んで見るし、目があったら反射でついにこっとしてしまう。

 怒ることすら続かないのか、と自分の一貫性の無さになんだかがっかりしてしまう。

 が、しかし。それでも一度相手を頭の中で怒りの限り呪うことには意味がある、と思う。

 そう思わせてくれた本が『ひとを〈嫌う〉ということ』(中島義道/角川文庫)だ。

 

〈嫌い〉の豊かさを考える

 全体をわたしなりに要約すると、

自他共に認める嫌われ者のおじさんが、〈嫌い〉について考え尽くし、「人が人を嫌いになるのは自然なことで、そこには豊かさがある」と発見する本

 である。

 てっきり心理学の本かと思って購入したところ、初っ端からとにかくおじさんがひたすら考えてる本だったので、最初はだいぶがっくりきた。主観の本かよ。客観をくれよ。科学とか医学とかで安心させてくれよ。

 だが、読み進めていくと、だんだん著者の言ってることに納得している自分に気づく。自分が嫌われたエピソードだけ(ということはなくさまざまな文献をきちんと引用しているが)でここまで〈嫌い〉についての洞察ができるものなのか、と。

 このおじさんの渾身の洞察本で、特にいいなと思ったところ、それは「〈嫌い〉は結晶化する」というくだりだ。

 スンダールは「目に触れ耳に触れる一切のものから、愛する相手が新しい美点をもつことを発見する心の働き」であるところの「愛の結晶化作用」を説いたが、〈嫌い〉にもそれはあてはまる、と。

なんとなく気に食わなかった人が、あるとき突然結晶化作用により大嫌いになることは誰でも知っています。それまではばらばらであったその人の属性が、突如見事なほど組織的に「嫌い」の要因へと変質してゆく。


では、どうしたらいいのか。結晶化の方向に走りだしたら、まずは冷静にその成りゆきを観察すること。しばらくは、あまり抵抗しないで結晶化するにまかせる。はたして、気がつくと相手はありとあらゆる嫌いな属性を担った者、つまり大嫌いな者として、あなたの前に現れているでしょう。


しかし、どこまでも「嫌い」が肥大してゆくわけではなくて、あるところまで来ると、キャパシティが限界で同じところをぐるぐる回っている感じに至ります。相手の「嫌い」の原因を五〇並べてもう出てこない。そのうち、それら原因同士が崩れはじめ溶解しはじめて、何が何だかわからなくなってくる。結晶化は止まったのです。

 なんかもうよくわかんないけどあいつ嫌い、すごく嫌い!みたいな状態である。坊主憎けりゃ袈裟まで憎い、とも言う。著者曰く〈嫌い〉という感情にも段階があり、それが行き着くところまで行き着くと、それ以上の段階には進まなくなるという。

 そして、そうなると人は冷静に〈嫌い〉を眺められるようになり、そこから学び(という言い方が説教くさければ知見・納得・理解など)が得られることがある、と続けている。

ゆっくりと時間をかけて、その発酵を待ち、そこから「俺(私)はこういうふうにとらえられているんだなあ」とか「こういうふうにひとって誤解するんだなあ」とか「こうしても、ひとってやはりわかってもらえないんだなあ」とかさまざまな勉強をする。少し冷静になりますと、自分に対しても多少批判的に「俺(私)ってこういうふうにひとを裁いてしまうんだなあ」とか「こういうとき、俺(私)って聞く耳をもたなくなるんだなあ、依怙地になるんだなあ」とか、さまざまなことが見えてきます。

 これはなるほどそうであるなあと思う。

 事実、わたしはこの度の先輩の叱責に大いに腹を立てたが、感情が鎮静化すると「それでもわたしは学ぶ必要があるし、この人には学ぶべきところがある」という気分には多少なった。

 

 そして先にも書いた通り、本書は「人が人を好きになるのと同じくらいに、人が人を(すこぶるしょうもない理由で)嫌いになることは自然なことである」と説いており、その自然に逆らおうとする道徳的な人はむしろその行為によってさらに苦しみや困難を作り出していやしないか、と投げかけてくる。

 確かに自分も「でもあの人にも正しい部分はあるし…」とか「こんなことで恨むなんて子どもっぽいかも…」とついつい考えてしまいがちだが、無論余計に苦しくなるし、そんな弱々しい理性で怒りから立ち直れたことなんてない。

 むしろ、一度〈嫌い〉に全力で囚われてみることで、逆にその馬鹿馬鹿しさが怒りや恨みを鎮火してくれる、という経験の方が多い。

 

 もちろん本書の論はこれだけではなく、嫌いの段階をつぶさに分析してみたり、ケーススタディ的にエンタメ作品を例に「どう〈嫌い〉になっていればより豊かになるか」というIFを考えたり、〈嫌い〉にぶち当たるのはどうしようもなく辛いけど、どう折り合いをつけているのかなど、あらゆる角度から〈嫌い〉を考え尽くしている。おじさんの渾身の考察は本当にリッチで、読むとちょっと人間についてわかった気がするし、楽になれる気がする。

 

怒られた時に「あいつ○ね」と思うことの効能

 まとめると、著者は〈嫌い〉の結晶化を待ち、だんだんと相手への憎しみや軽蔑が増していく過程を止める必要はない、何故ならそれは自然なこと、豊かなことであるからと書いている。

 そこにわたし個人の見解を付け加えるなら「あえて自分を甘やかして、いきなり相手をとことん〈嫌い〉になってみるのも、案外悪くないんだな」と説いてみたい(誰に)。

 それは「一気にフルパワーで嫌うこと」の効能、言い換えれば「怒られた時に○ねと思うこと」の効能である。


 もちろん、自分から怒りに火を焚べるわけだから、リスクは覚悟しなければならない。その火はずっと消えないかもしれない。〈嫌い〉になりすぎて2度と元の関係に戻れないかもしれない。実利のある人間関係を逃すかもしれない。

 でもきっといつか結晶化は止まり、敵だとしか思えなかった相手が同じ人間であることを知る日は来る。どんなにアホでもわれわれはそれなりに経験から学ぶ生き物であることに加えて、新たに〈嫌い〉になる人はどんどん増えていくからだ。

 かく言うわたしは人生の中で「こいつはいつか○すリスト」というものを作っている。ランキングのベスト3は常に名前と罪状が言える状態にあるのだけれど、そのランキングすら時間と共にどんどん入れ替わっていく。この春にはついに1位が入れ替わった。M-1もびっくりの衝撃展開が人生には常にある。

 でも、それはきっと幸福なことだ。〈嫌い〉が新陳代謝していき、いずれ今憎んでいる人のことも瑣事になる。塵芥のように思える日がくる。そういう形の希望もある。

(また1位タイとか、参加者が全員高得点のとんでもないレースが始まるかもしれないが、それはそれとして)

 うまく生きるために中庸やバランスが必要だと叫ばれる昨今、そうあれないわたしのような人には、ひょっとすると安心して苛烈になることが突破口になるかもしれない。「安心」がポイントで、〈嫌い〉が波及したり人に指さされたりしないところで花火のようにぶち上げるのがいい。念のため。


 人間が多面体であるように、誰かへの想いというのはいつだってマーブル模様だと思う。

 あいつがきらい、気に入らない、許せない。でもちょっとした優しさがうれしかったり、稀に「こいつなかなかやるな」とも思う。あいつは好かない、ああはなりたくないと思いつつも、その人の小さな親切に助けられる日がある。逆も然りだ。それはきっと自然なことだ。


 だから、先輩。わたしの生活にまあまあ大切で必要なあなたの死を、たまに心から願ってしまうことを許してね。尊敬してるけどたまに殺してやりたいくらい憎んでしまうことも許してね。長い人生の旅路の中で、憎しみも怒りもいずれ瑣事になっていくことをわたしたちはきっと知っているから。


 あーでもわたしのことは嫌いにならないでほしいっすね。ははは。

 

 

 

モードがやりたい

この秋は、この何十回目の秋こそは、モードになりたい。


夏が終わる気配がしてきた。今年の夏もいっぱい好きな服を着た。春から夏にかけて友だちと絶縁したし、お盆休みには親族宅で大暴れしてとんぼ返りしたり、したけど、それでもいい夏だった。好きな服をおおむね好きなように着ていられたから。

夏服は単価が安いから冒険しやすい。服オタになれない下手の横好きにはいい季節だ。それに何より、わたしの大好きなノースリーブが着られる。わたしの肩がゴツいのはこのためだったのか!とさえ思う。肩をそびやかして袖のない服を着るのは楽しい。

だけども、そんな季節ともそろそろお別れの準備をしないといけない。

そりゃまだまだノースリーブは着られるけど、上にカーディガンやジャケットを羽織る必要は出てくるわけで。それだけであの軽やかさ、開放感は半減、いやそれ以下になってしまう。

ただのインナーには興味ありません。ノースリーブ、タンクトップ、深めのVネック、ペチコート必須な透け透けの生地、馬鹿みたいにでかい動物柄、無駄に背中にスリットのある服があったら、あたしのところへ来なさい。でもそれだって市場に出回っているうちなのである。もう次の衣替えが近づいてきている。


今年は、季節の変わり目に装い全般について振り返りをするようにしていた。冬、春、夏を振り返って前を向くと、秋である。

1年前はどうしていただろう。なんかカーキのもたっとしたシャツワンピースを買った気がする。ボーイッシュというか、ちょっとゴツゴツした感じの、趣味で革小物の手入れとかしてそうな感じのワンピースだった。

あとは深めのVネックの黒いワンピースか。恋人が選んでくれただけあって、私によく似合っていて好きだ。


だけどもでも、せっかく一瞬で過ぎる季節なのだから、何かひとつ遊んでみたい。今持っている、過不足なくわたしにフィットする装いもいいけれど、たまに(?)は意味わかんない服を買っておのれを脱ぎ捨てたい時もある。なんせ夏はわたしの季節だったから、秋はわたしじゃない季節にしてみたい。


そんなわけでモードである。

モードがやりたい。なんか顔がシュッとしてる人やタッパがあって持て余してるような人が有利そうだし。違うか。そんなことないな。肩がゴツいのはありだろうか。

でもセンスはぜんぜんない。しかも顔や頭をつるっとプレーンな感じに寄せていたから、多分真っ黒とかひらひらとかずるずる引きずりそうなやつとかが死ぬほど似合わない、気がする。丸メガネなんてお呼びじゃないでしょという気もする。派手な化粧も苦手だし。

それにお葬式なんか?ってくらい暗い服、毎日着てたら飽きちゃうかな。そんなことないかな。あと長いパンツってヒール必須じゃないの。遅刻魔には厳しいものがある。

ぜんぜんわたしらしくなさそうだけど、なんかでもいいんだよな。進んで不自由なカッコしてるというか、人工的な美に寄せているというか、そういう装いに矜持を感じる。


ロリータやゴシックはまた着物とかの世界に近いのかなーと思っているので、日常着で挑戦するならモードだな。でもモードって何したらいいんだ。初心者向けのやつとかないのか。

雑誌を見て勉強しようと思ったら、なんかやばい組み合わせのスナップばっかりで難しそうだった。その煮しめたような色のボタンがいっぱいついているジャケットはオシャレなんですか。わたしがやったら、古着屋でいちばん安い服を着てきた人みたいにならんか。そんなの、海外セレブがやるからありなんじゃん。それに服屋さんで見た、白黒で凛としてる感じじゃない。どうやらモードにはいろいろあるらしい。難しい。


だからまあ、自分なりのモード。取り急ぎで手始めなモードをやりたいと思う。己を脱ぐ練習であり、やはり己でないとなれば脱ぐことになるのも含めて練習である。というわけで、次のお給料日がきたら、いかれたニットでも買いに行こうと思う。