厠草子

これで尻でも拭いてください

世界よ、かわいいの種類は無限ではありませんか(後編)

前編のあらすじ

 

フェリシモとの出会いにより、コンセプトを纏うというおしゃれにおけるy軸を手に入れたが、ついにすきな人ができてしまう。

 

 

大学生その2:モテとはどんなものかしら

 

 そう、すきな人ができてしまったのである。それは、自分以外の人間(それも異性)に自分自身を「いい」と思われる必要が生じてしまう、ということでもあった。身なりを整えるにしても、自分ウケばかり狙っているわけにはいかなくなったのである。

 すきになったのは、大学の先生だった。もっとも、17歳離れた異性に好かれたい、という思いが、最初から自分の世界観と衝突していたわけではない。大学2年生あたりのわたしは、かわいいからと生足でショートパンツを履いたり、パニエみたいなチュールスカートを着てみたり、目に眩しい色のカラータイツを履いたりしていた。制服ちっくな世界観も好きだったのでプレッピースタイルに近い服装もしていた。そうして、自分の世界観の中から出ようとせずに、気に入った服を好きなように着ていた。

 

 そんなわたしだったがある日、あるブログを読んで、ぶん殴られたような衝撃を受けた。

 そのサイトは『蜜の国 | その恋、遠くから眺めれば「蜜の国」』といった。わたしが今まで出会った中でいちばん実用的な恋愛指南ブログだった。

(ブログ改装にともない、当時読んでいた記事は見ることができないみたいです)

 

 詳細は読んで貰うのがいちばん良いが、わたしなりに要約すると「他者に嫌悪感を抱かせず、かつ自分の意思を持っている人間は人を惹きつける」というのがそのブログの内容だった。その文章を読んで、他人からどう思われるか、という視点が自分から全く失われていたことに気が付いた。と同時に、自分の中にある強烈な欲望にも気付いてしまったのである。

 

 モテたい。

 すきな人にはもちろん、そうじゃない人にも好かれたい。

 

 3歳で「かわいい」を意識し始めてから17年が経っていた。「まともに扱われたい」「周りから浮かないでいたい」「自己表現したい」という段階を経て、ついに「モテたい」という欲望を持つに至ったのである。実に長い道のりだった。

 思えば「好かれたい」という気持ちはいつもあった。でも現実が厳し過ぎて、他者の視線を受け止める余裕なんてなかった。「可愛くないから愛されない」という思いに邪魔されて、ずっと見た目に自信がなかったし、自己表現が出来なかった。だからまず「見た目を批評されたくない」「安全な場所で自分の内面をさらけ出したい」「誰かに自分を受け止めてもらいたい」という欲望を叶えることに必死だった。他者にどこがまずいと思われているのかを直視するなんて、怖すぎて無理だった。しかし、他者に「いい」と思われるためには、他者の視線を受け止めねばならない。x軸とy軸に次いで、z軸の存在を認知した瞬間だった。

 大袈裟かもしれないが、「モテたい」という欲望に駆られて初めて、わたしはこの世に他人がいることを思い知ったのだ。

 

 「モテ」を意識するにあたり、まず個性的でどうしようもない服は処分した。気に入っていたパニエスカートとお別れしたのもこの時だ。

 そしてユニクロとGUをはじめ、シンプルかつリーズナブルな服を入手するようになった。自ずと纏う色もモノクロとアースカラーが中心になった。化粧もナチュラルで控えめな方向にシフトチェンジした。

 着回しができるくらい服を揃えると、むしろ経済的であることも発見だった。モノ萌えで服を買い揃えていた時は、1点1点が個性的で取り合わせに苦労した。その接着剤、ハンバーグでいう「つなぎ」としてシンプルな服を買ったりもしていたが、なんだかチグハグだった。「シンプル」はそれ自体が一つの主張であり、個性的な服と取り合わせると喧嘩する、ということに気がつくのはそこからさらに後だが、取り急ぎほぼ全ての服を「シンプル」にしたらつなぎの服を買う必要もなくなった。

 目指すは「こいつめんどくさそう」「ややこしそう」「清潔感がない」と思われない装いである。17歳年上の男の人が果たしてどんな女性を好むのかはわからなかったが、まともな格好をしていれば嫌われはしないんじゃないかという算段はあった。

 気づけば大学3年生になっていた。ゼミが始まるということもあり、心機一転、人に好かれる自分になってやろうと意気込んでいた。「モテたい」という欲望を起点にした身だしなみを整えるブームは社会人になるまで続いた。結果的に分不相応な恋には敗れたし、ゼミは女子ばかりでモテもクソもなかったが、見た目の作り方に明確な指針ができたことで、わたしの精神はかなり安定した。

 

 と思っていたのだが。

 問題はまだ残されていた。

 どれだけ普通っぽい服を手に入れたところで、他のかわいい女の子に比べて、自分を「好き」にはなれなかったのである。

 

社会人:鑑よ鏡

 社会人になって、会社に行くようになってからは、服に悩むことはほぼなくなった。なんせ週5でオフィスカジュアル、残された土日のうち1日は寝て過ごすのだから、自己表現をする機会は週に1回あればいい方である。会社に行く服は基本オフィスカジュアルのローテーションだし、学生の頃に比べたら休日用の服について試行錯誤する財力もある。そういうトライアンドエラーは楽しかったので、装うことは趣味と言っていいくらいになっていた。

 ただ、自分に対する自信は一向につかなかった。

 なんとか擬態しているけれど、わたしは他のかわいい女の子とは違って地味でかわいくない顔立ちだ。同じ服を纏っていても、横に並べたらわたしの方が容姿で劣るに決まっている。「かわいい」とたまに言われることはあっても、評価されてるのは擬態の完成度であって、それはわたし自身の魅力ではない。そういう思いがあって、対人関係でも自分を出すことに抵抗感があった。

 社会人1年目は特にそうだった。少ない同期の中で、わたしは1番模範的な態度の新入社員であろうと努めた。同期にも、先輩や上司にも、自分を曝け出すのが怖かった。「モテ」は有利だ。従順で没個性的な態度こそベストな選択肢だ。そう思い込んでいた。

 その一方で、自分以外の女の子、いや全人類はみんな魅力的に見えた。個々に違ったかわいらしさがあって、キャラクターの引き立つ容姿と、何より惹きつけられる内面を持っていた。わたしがそれが羨ましくて仕方がなかった。あつらえたような個性のあるみんなと、擬態で誤魔化しながら生活している自分を比べると、その差に打ちひしがれずにはいられなかった。今にしてみれば、擬態に努めるあまり「自分らしさ」へのアレルギー反応を起こしていた様に思う。自分が自分であることを、わたしはどうしても受け入れられなかった。ありのままの自分とは、わたしの目から見える世界にとって異物そのものだった。

 

 そんな状況が長く続いた。社内の人と打ち解けるようになってからも、「素の自分のままではこの集団に居場所はない」という思いは消えなかった。仕事で一度大きな失敗をしてからは、さらに居場所のない思いに苛まれて心を病んだ。直接関係はないかもしれないが、そういうどうにもならない自己嫌悪が、悪化の遠因になっていたようにも思う。

 

 そんな折、ふとした時に同期に言われた言葉に、またしてもわたしは衝撃を受けた。

 

 「なんか、日向坂の佐々木美玲に似てるよね」

 

 興味がある人はググってみてほしい。そして検索窓にその名前を打ち込んだら、自分と全く同じ顔の人間が出てきた時の衝撃を想像してほしい。

 佐々木美玲さんはマジでわたしに似ていた。いや、もちろん顔の完成度は彼女の方が圧倒的に高いのだが、系統はほぼ一緒だと言って相違なかった。メガネをかけさせるとほぼわたしだった。びっくりした。この世には、顔が似ている人って本当にいるんだ、と呆然とした。

 

 そしてわたしは彼女のことを、綺麗な人だと思った。

 

 ゆっくりと自分の考えていることを整理した。

 わたしは、わたしに似た顔の人を綺麗だ、と思った。それはつまり、自分自身に対しても、同じ言葉を掛けられるということなんじゃないだろうか。

 彼女に対して抱いた印象は「綺麗だ」だった。「かわいい」じゃなくて、「綺麗だ」でもいいんじゃないのか。いや「綺麗だ」だけじゃない。「大人っぽい」とか「真面目そう」とか「優しそう」だって、ありなんじゃないのか。わたしが、他人の個性を素敵だ、と思っているように、わたしもわたしの個性を認めてもいいんじゃないだろうか。「かわいい」って、人の魅力って、x軸とかy軸とかz軸とかで測れないんじゃないのか。

 

 その日、帰って全身鏡の前に立った。そこに映ったのは見慣れた自分だったけど、嫌いで仕方なかった自分だったけど、ほんの少しだけ彼女を「いいな」と思えた。

 

 

総括:世界よ!

 この話はこれでおしまいである。

 後日談的に付け足しておくならば、あれからわたしの服装はほんの少しだけ個性派に逆戻りした。

 ZARAの虎柄のシャツを着たり、真っ赤なワンピースを着たり、職場でシルバーの靴を履いたりしている。大学時代、「ZARAは7割ゴミ」と言って憚らなかったわたしが、である。

 あと髪も赤色に染めた。会社の人には「グレたのかと思った」とコメントされたけど全然平気だった。

 自分の世界観と、自分以外の全ての他者の視線、その折り合いのつくところが1番居心地のいい場所だ。あと、多少無理して自分の希望をゴリ押ししても人はそんなに咎めないでしょ、と居直る気持ちもある。他者の視線を読んで自分をコントロールするのも、他人と共存する上で大事ではある。しかし、何よりまず自分が生きてないと始まらない。人間を花に例えたSMAPのあの歌は、ひょっとすると世界の真理なのかもしれない。

 

 

 世界よ、かわいいの種類は無限ではありませんか。