厠草子

これで尻でも拭いてください

この白黒つけられない世界の片隅に(ヒプマイ)

※ヒプの世界にいるとも限らないモブが主語です。

 

 DOPPO、おまえ変わっちまったな。

 新曲聴いたよ。いい曲だった。超キレててカッコよかった。なんか、正統派の社畜っていうか、ちゃんとサラリーマンしてるやつの歌だったよな。
 仕事はたぶんそこそこ以上にできてて、だからこそ貧乏くじ引かされて仕事が終わらないんだろ? 先輩上司に気配りも、後輩部下に気遣いも、与えようとして板挟みになって、ちょっとやさぐれてる中堅なんだろうな、会社のおまえって。リリックから伝わるよ。一生懸命頑張ってるやつの言葉だった。
 「チグジリア」のときは、なんつーかそんな感じじゃなかった気がするよ。
 厭世的で、誰の助けも必要ないって顔してさ。「挨拶が済んだらほっといてくれないか」なんて力ないリリック、他のディヴィジョンじゃ聞いたことない。戦いたいとも、勝ちたいとも言わないで、「マイクを持つ意味は知らない」なんて言ってたのはおまえだけだった。
 出勤ラッシュとか、ビルの間の雑踏とか、お涙頂戴の美談とか、現実みてるようで逃避してるやつらとか、そういうものに唾をはいて。そのくせどうしろこうしろとは言わないで「俺のせい俺のせい」って背中丸めてる姿を余すところなく歌う、まるで自分の命を盾に世界を脅迫しているみたいだったよな。会社の役に立つとか、夢にも思わなさそうなサラリーマンに見えた。
 
 だから「BLACK OR WHITE」歌ってるときのおまえがなんかイキイキしてるの、正直すげービックリした。
 「タフに静かに白黒つけます」って言葉、俺は好きだよ。かっこいいと思うよ。それが、DOPPOの新しい戦い方なんだって言われたらいくらでも支持するよ。
 でも俺は、黙って白黒つけるなんて、潔い戦い方はできない。
 会社じゃおまえ以上にお荷物だ。俺の席、窓際の一番端っこにあるんだぜ。偉いからじゃない、むしろ出世してるやつらから一番離れた席だ。年齢的にはそこそこ中堅になってきたはずなのに、ノルマも全然達成できないし、いつもいびられてばかりで。昔はもうちょっと頑張ろうって思ってたんだけどな、最近じゃ会社に行って仕事してるふりするのが精一杯だ。
 情けないだろ、ほんと。情けないやつなんだよ俺は。
 だからおまえの「生き甲斐も別にないよ 眠りたいだけ」ってリリックはじめて聴いたときさ、嬉しかったんだ。生きてて辛いって気持ちもラップになるのかって。俺のこのやるせない気持ちも、情けない現実も、耐えきれないもう逃げたいって悲鳴も、まとめてリリックにして吠えることができるんだって。
 大袈裟じゃなく、救いだった。
 俺は「白黒つける」なんてカッコいいことできない。ノルマを絶対達成してやりますとか、この案件は全責任を負いますとか、そんなことできない。でっかい企業で白黒つけて仕事してる摩天狼と、零細企業でごまかしながら生きてる灰色の負け犬を比べること自体、スケールが違いすぎて意味のないことなのかもしれないけどな。
 
 でも新曲聴いてさ、どうしてもおまえに聞きたかったんだ。
 なあ、負け犬も吠えていいと思うか?って。
 負けてても、叫んでいいと思うか?って。

 ......いや、要らないこと書いてしまった、やっぱり忘れてくれ。負け犬の遠吠えなんか気にするな。次のバトルもこの調子で勝ってくれ。
 一足先に前に進んだおまえのあとを、やっぱりおれは追いかけるんだろうな。
 ファンだからな、こればっかりはしょうがない。
 おまえの後ろ姿、これからも見ているよ。そしていつかとなりに並ばせてくれ。

リモートワークと孤独とInstagram

このたび、わたしの勤める会社もついにリモートワークを開始した。
部署が営業部なので、基本的にはパソコンを持ち帰って、顧客からのメール対応や現場に指示をするくらいである。ぶっちゃけひまだ。まだ1日しか経っていないけれども感想をメモしておこう。

 

・人恋しい
 とにかく人が恋しい。というか、他人の視界に入らないと、存在の不安に耐えられなくなる。わたしひとりがわたしという人間に向き合っているという状況がとにかくもう不愉快である。わたしは他人に承認され、肯定され、あわよくば称賛されることでどうにか人の形を保っているのだから、固形化に必要な材料が得られない状態、それすなわちゲル状である。こうして一人で机に向かっていると、今まで会社にいる時間、どれだけの人に気をそらさせてもらっていたかを思い知る。
 例えば人が同じ空間で動いているだけでも「何をしているんだろうな」という意識が働く。おじさんが「そのマスクいいじゃん」とかうざがらみしてくるのだっていい気のまぎらわしだった。上司から小言を頂戴する時間だってまあ...一人に比べたらましだったのかもしれない。そういう、ほどよい雑音が消えてしまうと、世界は静かで孤独で耐えがたい...。
 とにかくインターネットでもいいから誰かの視界に入りたいと思って、Instagramにリモートワーク中の服装を記録するアカウントを作ってみたりしている。釣果は1回の投稿で2~3人というところだ。毎日、違う人が鏡の前のわたしを覗きに来てくれるようで嬉しい。


・服選びが難しい
 これは予想外の気付きだった。 
 最初は、室内でもいいから毎日好きな服を着て、自分のためにおしゃれをするつもりだった。しかしいざリモートワークを始めてみたところ、なんというか...おしゃれ、要らないのである、意外と。Instagramまで作っておいて気づくのが遅すぎなのだが、人の視界で固形化するタイプのわたしが、人にみられない環境で着飾ることにあまり意味はなかった。
 当たり前のことだが、おしゃれな服ってのは往々にして動きづらかったり汚れやすかったりする。白いシャツワンピはかわいいけど安心してミートソーススパゲティが食べられない。ヒラヒラしたスカートも、狭い自室のデスクに着くときには邪魔である。特にわたしは作業に熱中してくると椅子の上であぐらをかくタイプ(もちろん会社ではやってない)なので、フレアスカートとか邪魔でしかない。椅子の背と擦れて毛玉ができても嫌だし、洗濯回数多くなっちゃうのも劣化に繋がりそうだしな...なんていってたらあっという間にパジャマ生活になってしまう。
 しかしやはり、わたしは人に認知されたいのだ。視界に入らないと自家中毒でどうにもならなくなってしまうのだ。パジャマ姿では、外の世界の人には会いに行けない。そういうわけでInstagramを始めたのである。一軍でもない、けどパジャマでもない服を投稿することで、結果的に人間らしい服で仕事ができる気がする。

 

 結果的にInstagram礼賛記事になってしまった。これではステマではないか。
 まあこんな誰が読んでるのかもわからない、更新もほぼない零細ブログでステマしたところでしょうがないのだけれども。
 さんざん書いたInstagramのアカウントは下に載せておこうと思う。誰も見んじゃろ、という謎の自信と、それでも、ここでわたしを視界にいれてくれた誰かが、引き続きわたしを視界にいれてくれたらなと願う気持ちを込めて。

 

Instagram→kiroku_shichikuLogin • Instagram


 

映画『プレシャス』を観ました

 

 いきなりですが星野源さんが好きです。

 楽曲ももちろんなんだけれど、同じくらい彼の文章が好きです。一言で表現するならば、文字書きに向いているという自負がある人特有の、あの鼻持ちならない感じが彼の文章にはない。話の持っていき方や文章の締めはとてもオーソドックスな形が多く、カッコつけていない。自分でも文章を書くことには慣れていないと言っていることもあり、良い意味で「習作」といった感じがする。そこがたまらなくいい。まあ、本人の知名度や人気による補正がかかっていることはほぼ間違いないのだけれど。

 その星野源さんの著書『働く男』に映画『プレシャス』(リー・ダニエルズ/2009年)のレビューが載っていた。例の素敵な文章で紹介してくださっていたので、長めに引用する。

 

 アメリカはハーレムに住む主人公のプレシャスはものすごく太っている女の子。実の父に犯され子供を一人産み、現在二人目である父の子供をさらに身ごもっている。 さらに同居している母の異常な家庭内暴力にあっていて毎日怪我が絶えない。しかも、プレシャスはまだなんと16歳なのだ。

 ひー。ハードな話である。書いているだけで落ち込む。しかし、この『プレシャス』の特徴はそのハードな設定とは別にある。そんな超シリアスなストーリーの中に、いきなり『だいじょぶだぁ』クラスのくだらないコントのようなシーンが挟み込まれるのだ。そのせいもあってか、映画を通して暗い雰囲気はほとんどない。むしろ明るいコメディ映画のような印象すらある。(『働く男』p30)

 

 ちなみに『だいじょぶだぁ』は志村けんのコント番組である。地名の説明に助詞の「は」を使うところも個人的には好感度が高い。端的な要約でありながらしっかり作品の魅力を押し出してくるあたりはさすがである。

 さっそくレンタルして『プレシャス』を観賞した。

 

 主人公のスタート状態は引用で紹介されているので割愛させてもらう。

 その後プレシャスは以前から通っていた中学校から二度目の妊娠をきっかけに追い出されてしまう。校長先生の計らいで「each one teach one」というフリースクールに転校させられ、そこでレイン・ブルーという女性教師と出会うことになる。

 映画の中ではプレシャスが母親から「お前なんか勉強しても無駄だ」「お前は馬鹿だ」と罵詈雑言を浴びせられるシーンがいくつもある。この母親にとって娘は生活保護の頭数を増やし、家事を代行する召使いに過ぎないからだ。プレシャスは学問に対してコンプレックスを抱いており、勉強が苦手である。数学だけは(前の中学校の数学の先生にぞっこんだったこともあり)得意だが、読み書きはさっぱりでまともに書けるのは自分の名前くらいのものだった。当然、受講しているのはフリースクールの中でも一番下のクラスである。

 「スペルが間違っていても、文法がおかしくてもいいから、何かノートに書く」というレイン先生の指導によって、プレシャスは徐々に「自分の考えを言葉にして、人に伝える」ことに目覚めていく。問題児だらけのクラスメイトと親交が深まるにつれて、内向的でむっつりとしていたプレシャスの表情も明るくなっていった。

 

 物語の中盤までのあらすじをまとめるとどうしても熱血教師モノの作品めいてきてしまうのだが、この映画の真の魅力はそこではない。

 

 古今東西、みんなに好かれる典型的な物語のパターンには、そこそこの顔の主人公に、平均以上の能力値が備わり、多少の欠点はあるものの基本的には社会に適合できている。社会に適合できない人物にはそれなりの「理由」が用意されており、それは「才能」「運命」「試練」と物語の筋次第で様々なアクセサリーに変わる。彼らが適合できなくっても世界は優しい。不当にいじめたり、存在を無視したり、可能性を奪ったりしない。

 物語の中では「失敗」も「物語」になる。「失敗」した人は、それでもカメラに自分を追ってもらえる。物語が終わる最後の最後まで。

 物語には「見栄えしない人」の居場所がない。現実世界の人間がどんなに大きなコンプレックスや消したい過去、運命を背負っていたとしても、客観の前にそれらは塵に等しい。たとえ同じような、否、もっと小さいくだらない問題を抱えていたとしても、解決も進展もしないうえにそれを誰かに見てもらうこともできない自分のほうが、よっぽど切実に苦しんでると感じる。物語化されるということは、消費するに値する、見るに値するということと同義なのだ。誰にも見られもせず、解決もしない私の日々のほうが、よっぽどクズでダメでゴミのようではないか。

 

 その点からいえば『プレシャス』はひどい。太っていて不細工(もっとも、演じたガボレイ・シディベが魅力的な容姿の持ち主であることは、ちょこちょこ挟まれる妄想シーンの輝きぶりによって証明済みなので、顔のパーツとその配置は美醜に関係しないことになる――私のような顔面コンプレックス人間には朗報だ)しかも学力がなく、両親に愛されておらず、他人から容姿を馬鹿にされ、貧困のただ中で妄想ばかり繰り返している。

 しかも物語自体も、ネグレクトによってろくに勉強ができない女の子が、学校と理想的な先生に出会ってやがて自分のいた環境から抜け出そうとする、その途中で終わってしまうのである。とてもじゃないが、ジャンプやマーガレットには載せられない。

 

 だからこそ、私はこの映画を観て「ああ、プレシャスは私だ」と思ったのだ。彼女がしんどい状況のなか生きている、たったそれだけですごいと思ったのだ。安いアクセサリーで精一杯おしゃれしているところも、体に合わせた服を着ているところも、街を歩くときに警戒心と自虐心からぶすっとした表情になってしまうところも、すべてが自分のコンプレックスとがんがん共鳴した。抑圧され、奪われた言葉を取り戻し、自分の言葉で母親と対話するラストシーンでは「ああ、こんなに成長して」と涙せずにはいられなかった。

 私はネグレクトにあったことはないと思っているし、レイプされたこともない。けれども不当に権利を侵されたと思ったことは何度もあるし、加害した人物がのうのうと生きていられる社会に今でも不信感を持っている。そして、その思いは私だけでなく誰もが抱えてるものだろう。そんな惨めな思いをしたことはない、といえる強い人なんて、いないに違いない。

 物語はいつも、最後に笑っている人のためにある。笑えなくても、輝きを放つ人のためにある。惨めな思いが報われないまま、心の傷が癒えないまま惰性で生きている凡人にスポットが当たる機会なんてほとんどない。だから多くの人は、人生がままならなくて厄介で不条理なゲームであることから目をそむけていられる。その現実と目を合わせてしまったら、痛みを味わわなくてはいけないからだ。

 映画『プレシャス』はその惨めな現実を当たり前のように描く。フラットな目で、滑稽に、しかし意義深く描く。だからこそ映画を観終わったとき、変えられない現実にぶち当たっても人生を生き直そうとし、そしてその先で愛されたプレシャスが、実に勇敢でキュートな女の子であったことに気づかされるのである。

 

 

  

 

不器用な人が羨ましい話

当方、小学校に上がる前から集団に馴染めなかった典型的なぼっちであるが、この歳になるといい加減人間関係のミソが把握できるようになってくる。

人は受容されたい。人は認められたい。はじき者にされたりせせら笑われたりするとひどく傷つく。だからこそ初対面の人との会話は聞き役を引き受けるに限る。あなたの話をもっと聞いていたい、ステキなあなたのことをもっと知りたい、と言わんばかりに楽しく話を聞く。否定はしない。ふんふんと相槌を打ち、時折質問してやる。そういうことが、ある程度までなら脳の容量を使わないでもできるようになってきた。つまり器用になってきたのだ。

これはわたしに限った話じゃない。世の中で大人として生きてる人は大抵が獲得している能力で、クオリティの差こそあれ、みんなお互いに接待しあって生きている。親しき仲にも礼儀ありってステキな言葉だ。たとえ身内であっても、精神的おもてなしの心は必要不可欠だ、と家族や友人の思わぬ一言に背中を刺されるたび思う。


だが、ときどき、そういった配慮を知らないとしか思えない人に出会う。

自分の話を延々と続ける人、こちらの反応を見ない人、何も質問してこない人。面白い時以外にも笑顔を作るということを知らないのかいつも仏頂面の人。人を褒めない人。身なりに気を遣わない人。

そういった人に出会うたび、ああ羨ましい、と思う。他人の視線を気にしないで生きられる強さが羨ましい。他人の視線なんかよりもよっぽど自分の都合を優先していることが、その力強い生き方が羨ましくてしょうがない。


無論嫌味である。ありのままの自分で力強く咲き誇られても正直困るのである。

とある研修で「1分でお互いに自己紹介して下さい」って言われて1分30秒かけて自分の仕事や出身、趣味について紹介してくれた人がいたが、 さすがにちょっと自分の世界を生きすぎなんじゃないかと驚いた。えっあなたわたしのこと見えるの? てなもんである。

またある男の人に「今日は寒いね、なんであなたは平気そうなの」と言ったら「女の人はほら、血のアレがあって冷えやすいんでしょ」とコメントされ、その言葉に血の気が引いたこともあった。

他の客の話に対しての相槌を、ひとりでブツブツ呟いている人と飲み屋で隣になってしまったこともある。お店はきれいだったのにその席の居心地が悪すぎて二杯飲んだだけで帰ってしまった。勿体無いことをした。

とにかく、ありのままっていい言葉だけど、エルサの悟りはそういうやつじゃないと思う。もっとうまく生きられないの? という言葉が口をついて出そうになる。

ペアワークではまず相手に話を振ればいいじゃないか。何もなくとも話しかけやすいにこにこした表情でいればいいじゃないか。お互いの体の話は避けておけばいいじゃないか。ナンパがしたいならまず目が合ったら感じ良く微笑むところからだろ。

自分の世界を徹底して生きられているところ、他人からどう思われるかなんて気にも留めないところ。羨ましい。本当に羨ましい。

 

これは決して嫌味などではない。

他人が誰かに受容されたいと思っているように、わたしも誰かに受容されたい。他人からの肯定が欲しくて欲しくてしょうがないのだ。

だからわたしは自分が一番欲しい物のために、他人に従順に尽くす。他人の欲しがるものを欲して、他人の賞賛するものに倣う。最初はそれが楽しかったし効率のいい生き方だと思っていた。このスキルさえ磨けば人生チートだ、とニマニマしていた。しかし20数年それを続けてきた今、わたしはわたしが欲しかったものがなんだったのかわからなくなっている。

限りなく他人に寄り添っていたら、本来の輪郭の形を思い出せなくなってしまった。何度もいろんな方向に曲げた針金が歪な曲線しか描けなくなってしまうように、わたしをわたしたらしめている輪郭は形を変えすぎてもはやガタガタのぐにゃぐにゃのブレブレである。

そんな時に、思い出すのは決まってあの不器用な人々のことだ。他人の眼差しなど意にも介さず我が道を行くその姿に、思わず目を覆いながらわたしは言う。ああ、そういう人のことなんか考えてないところ、本当に羨ましいです。いやまじで。

 

 

終わりない日常その名は会社

社会人なので一人前に働いている。いや正確には0.5人前くらいか。新人なので仕事の内容はまだ一人前とは言えない。でも一人前に社会人をやっている。

社会人をやる、とはどういうことか。これは各々の認識の解像度や、価値観が大いに反映される問いだと思う。「責任を持って仕事を成し遂げる」と答える人もいれば「とりあえず人の形をして8時間会社にいること」と答える人もいることだろう。ここのマインドセットが違うと見える世界も大いに異なるため、学生時代の友人と久しぶりに集まった時に「最近仕事どうよ?」の一言を出した結果友情が壊れたりするのである。

もう2度と友情を破壊しないためにも、わたしの認識している社会人生活のチェックリストを文章にしておこうと思う。ちなみに難易度を5段階評価で示してある。難易度3がやってやれないことはないレベル、難易度5はできれば勘弁してほしいレベルと想定している。クソの役にも立たないことは承知の上である。

 

・朝起きる(難易度3)

夕方6時に起きて朝の8時に寝る生活をしていた頃は社会人になったら毎日6時起きだなんて無茶言わないでほしい、と思っていたのだが、案外やってみると適応できた。個人差があると思うが、ポイントは体質と諦めではないかと思う。とりあえず夜に寝られる体質であれば問題はない。あとはどのみち会社に行かなければならないという諦めがなんとかしてくれる。

 

・身支度を整える(難易度5)

意外と鬼門だった。社会人の身支度は学生のそれとは違うことをすっかり失念していた。

というのも、学生の間は「個人の自由だから」「不快なら関わらなければいいから」で済んでいた問題に社会人は正面衝突しなければならないからである。職場で付き合う人は選べない。産毛や鼻毛や鼻くそはもちろん、繋がった眉毛や伸びた爪すら悪口の対象になり得る。別に両さん眉毛は前髪で隠せばいいし、口にヒゲが生えてたって死にゃしないと思うのだが、人はだいたい自分以外の生き物には不寛容なので黙って言うことをきくしかない。

それに言っちゃなんだが身奇麗にしているひとほど得をするのが社会である。清潔感のある真っ当そうな人、みんな好きでしょ。老若男女、綺麗な人が好きなのは、ダサいトレーナーに身を包み、くたくたのズボンを履いていた小学生のわたしが6年間遠巻きにされていたことからも明らかである。

そんなわけで入社したばかりの頃は「この人は尊重しないといけない気がする」と思わせる見た目を作り上げることに日々心血を注いでいた。とはいえ1秒でも長く布団と戯れていたいので自然とその工程も縮小され、今では「毛と匂いさえなんとかなっていればもうなんでも良くね?」と開きなおってすらいる。2日にいっぺんはすっぴんで出社するし、トイレに行く前と後で顔が違うのはデフォルトである。たぶんもうずっとこのままだろう。

 

・挨拶(難易度5)

「おはようございます」がこんなに難しいとは思わなかった。

目が合わない、朝だから声が出ない、何度言ってもスルーされるなど気に入らないことを挙げていけばキリがないのだが、一番気に入らないのはフロアの全員に向かって挨拶するシチュエーションである。

「おはようございます」には「おはようございます」で返す。小学生でも知ってるお約束だ。それを一対多数でやるわけだから、言うなればコンサートのコールアンドレスポンスに近いものが繰り広げられてしかるべきである。

であるはずが、わたしのシャウトに同じ熱量でもって応えてくれる人間は誰一人としていない。ライブは俺らとお前らで一緒に作っていくんだぜ? 盛り上がっていこうぜ? しかし弊社のオーディエンスはうつろな目でボソボソと何事かささやくだけで全くノリに乗ろうとしてくれない。

会場を沸かせる挨拶、できる人は多分サラリーマンよりミュージシャンやった方がいいんじゃないだろうか。マイクを握っても蚊の鳴くような声しか出ないわたしは今日も曖昧に頭を下げてデスクに着く。

 

報連相(難易度10)

「5段階評価じゃなかったの?」だって? は? 細かいことは別に良くない??

これすごく苦手なんだ。すごく苦手。仕事の中で一番苦手かもしれない。

まず言いたいことが整理できない。伝えなければいけないポイントがいくつあるのかわからない。模試の100字要約ならこの人たちより絶対いい点取れるのに、どうして10分かからない商談の内容すらまともに伝えられないのだろう。

しかも声をかけるタイミングが読めない。さっきまで椅子に座っていた人が1分後には消えているなんてことがオフィスではしょっちゅう起こる。また一本の電話を境にモーションが一気にスピードアップし、とてもじゃないけど呼び止められないケースもある。かと思ったら別のところでは吊るし上げが始まり、人が死んでないのにお通夜のような空気になったりもする。職場はジャングル、なにが起こるかわからない。怖いから帰る。

これについては未だに解決方法の「か」の字すら見えてこないので、あまり考えないようにしている。

 

・相槌(難易度1)

いやわたし的にはゼロなんだけどさ。職場の盛り上がりに欠けるオーディエンスはびっくりするほど相槌をしない。だから誰かが発言してもそれを支持したり、疑問を投げかけたりする声が上がらない。そんなわけで空気は鳥もちのように粘り、流動性がなくなり、お通夜のような沈黙が会議室に漂うことになるのである。

それを思えばマックやミスドでくっちゃべっている学生は強い。「わかる」「それな」「超ウケる」を駆使して高速のラリーを打ち合っている姿に「若いっていいな……」と感嘆せずにはいられない。ちなみにプライベートのわたしは「だから馬鹿は嫌いなんだよ」「うるせえ黙ってろ」「超ウケるんですけど」を駆使して友達と憂き世の憂さを晴らしている。むろん片手には酒が欠かせない。我々は鬱憤を晴らすためにアルコールを嗜むが、閉じた空気を無理矢理こじ開けるためにも酒は用いられがちだ。「酒なしで1時間も2時間も会話なんてできねぇよ」と言った奴は、確かに相槌を打つのが下手だった。職場の飲み会がつまらないのはなるほどこういう理なのかと納得した。

 

会話を盛り上げるのは話し手の話術ではなく聞き手の合いの手なのだと思う。そして相槌にはある程度のスキルが必要だし、言葉選びにもその人の品性が宿るのだ。会社のおじさんたちがそれを理解するのはいつになるのだろう。わたしが彼らの話を笑って聞けるようになる日は来るのだろうか。

 

勘のいい読者の方々は社会人のチェック項目というお題目が、最近の気に食わねえことを羅列するための口実だったことにそろそろ気付き始めていることだろう。バレてしまっては仕方がないので今回はこの辺でお開きとさせていただく。 わたしは明日も会社なのだ。ああ、気に食わなくて割り切れない日常がまたやってくる。