厠草子

これで尻でも拭いてください

不器用な人が羨ましい話

当方、小学校に上がる前から集団に馴染めなかった典型的なぼっちであるが、この歳になるといい加減人間関係のミソが把握できるようになってくる。

人は受容されたい。人は認められたい。はじき者にされたりせせら笑われたりするとひどく傷つく。だからこそ初対面の人との会話は聞き役を引き受けるに限る。あなたの話をもっと聞いていたい、ステキなあなたのことをもっと知りたい、と言わんばかりに楽しく話を聞く。否定はしない。ふんふんと相槌を打ち、時折質問してやる。そういうことが、ある程度までなら脳の容量を使わないでもできるようになってきた。つまり器用になってきたのだ。

これはわたしに限った話じゃない。世の中で大人として生きてる人は大抵が獲得している能力で、クオリティの差こそあれ、みんなお互いに接待しあって生きている。親しき仲にも礼儀ありってステキな言葉だ。たとえ身内であっても、精神的おもてなしの心は必要不可欠だ、と家族や友人の思わぬ一言に背中を刺されるたび思う。


だが、ときどき、そういった配慮を知らないとしか思えない人に出会う。

自分の話を延々と続ける人、こちらの反応を見ない人、何も質問してこない人。面白い時以外にも笑顔を作るということを知らないのかいつも仏頂面の人。人を褒めない人。身なりに気を遣わない人。

そういった人に出会うたび、ああ羨ましい、と思う。他人の視線を気にしないで生きられる強さが羨ましい。他人の視線なんかよりもよっぽど自分の都合を優先していることが、その力強い生き方が羨ましくてしょうがない。


無論嫌味である。ありのままの自分で力強く咲き誇られても正直困るのである。

とある研修で「1分でお互いに自己紹介して下さい」って言われて1分30秒かけて自分の仕事や出身、趣味について紹介してくれた人がいたが、 さすがにちょっと自分の世界を生きすぎなんじゃないかと驚いた。えっあなたわたしのこと見えるの? てなもんである。

またある男の人に「今日は寒いね、なんであなたは平気そうなの」と言ったら「女の人はほら、血のアレがあって冷えやすいんでしょ」とコメントされ、その言葉に血の気が引いたこともあった。

他の客の話に対しての相槌を、ひとりでブツブツ呟いている人と飲み屋で隣になってしまったこともある。お店はきれいだったのにその席の居心地が悪すぎて二杯飲んだだけで帰ってしまった。勿体無いことをした。

とにかく、ありのままっていい言葉だけど、エルサの悟りはそういうやつじゃないと思う。もっとうまく生きられないの? という言葉が口をついて出そうになる。

ペアワークではまず相手に話を振ればいいじゃないか。何もなくとも話しかけやすいにこにこした表情でいればいいじゃないか。お互いの体の話は避けておけばいいじゃないか。ナンパがしたいならまず目が合ったら感じ良く微笑むところからだろ。

自分の世界を徹底して生きられているところ、他人からどう思われるかなんて気にも留めないところ。羨ましい。本当に羨ましい。

 

これは決して嫌味などではない。

他人が誰かに受容されたいと思っているように、わたしも誰かに受容されたい。他人からの肯定が欲しくて欲しくてしょうがないのだ。

だからわたしは自分が一番欲しい物のために、他人に従順に尽くす。他人の欲しがるものを欲して、他人の賞賛するものに倣う。最初はそれが楽しかったし効率のいい生き方だと思っていた。このスキルさえ磨けば人生チートだ、とニマニマしていた。しかし20数年それを続けてきた今、わたしはわたしが欲しかったものがなんだったのかわからなくなっている。

限りなく他人に寄り添っていたら、本来の輪郭の形を思い出せなくなってしまった。何度もいろんな方向に曲げた針金が歪な曲線しか描けなくなってしまうように、わたしをわたしたらしめている輪郭は形を変えすぎてもはやガタガタのぐにゃぐにゃのブレブレである。

そんな時に、思い出すのは決まってあの不器用な人々のことだ。他人の眼差しなど意にも介さず我が道を行くその姿に、思わず目を覆いながらわたしは言う。ああ、そういう人のことなんか考えてないところ、本当に羨ましいです。いやまじで。