厠草子

これで尻でも拭いてください

映画『プレシャス』を観ました

 

 いきなりですが星野源さんが好きです。

 楽曲ももちろんなんだけれど、同じくらい彼の文章が好きです。一言で表現するならば、文字書きに向いているという自負がある人特有の、あの鼻持ちならない感じが彼の文章にはない。話の持っていき方や文章の締めはとてもオーソドックスな形が多く、カッコつけていない。自分でも文章を書くことには慣れていないと言っていることもあり、良い意味で「習作」といった感じがする。そこがたまらなくいい。まあ、本人の知名度や人気による補正がかかっていることはほぼ間違いないのだけれど。

 その星野源さんの著書『働く男』に映画『プレシャス』(リー・ダニエルズ/2009年)のレビューが載っていた。例の素敵な文章で紹介してくださっていたので、長めに引用する。

 

 アメリカはハーレムに住む主人公のプレシャスはものすごく太っている女の子。実の父に犯され子供を一人産み、現在二人目である父の子供をさらに身ごもっている。 さらに同居している母の異常な家庭内暴力にあっていて毎日怪我が絶えない。しかも、プレシャスはまだなんと16歳なのだ。

 ひー。ハードな話である。書いているだけで落ち込む。しかし、この『プレシャス』の特徴はそのハードな設定とは別にある。そんな超シリアスなストーリーの中に、いきなり『だいじょぶだぁ』クラスのくだらないコントのようなシーンが挟み込まれるのだ。そのせいもあってか、映画を通して暗い雰囲気はほとんどない。むしろ明るいコメディ映画のような印象すらある。(『働く男』p30)

 

 ちなみに『だいじょぶだぁ』は志村けんのコント番組である。地名の説明に助詞の「は」を使うところも個人的には好感度が高い。端的な要約でありながらしっかり作品の魅力を押し出してくるあたりはさすがである。

 さっそくレンタルして『プレシャス』を観賞した。

 

 主人公のスタート状態は引用で紹介されているので割愛させてもらう。

 その後プレシャスは以前から通っていた中学校から二度目の妊娠をきっかけに追い出されてしまう。校長先生の計らいで「each one teach one」というフリースクールに転校させられ、そこでレイン・ブルーという女性教師と出会うことになる。

 映画の中ではプレシャスが母親から「お前なんか勉強しても無駄だ」「お前は馬鹿だ」と罵詈雑言を浴びせられるシーンがいくつもある。この母親にとって娘は生活保護の頭数を増やし、家事を代行する召使いに過ぎないからだ。プレシャスは学問に対してコンプレックスを抱いており、勉強が苦手である。数学だけは(前の中学校の数学の先生にぞっこんだったこともあり)得意だが、読み書きはさっぱりでまともに書けるのは自分の名前くらいのものだった。当然、受講しているのはフリースクールの中でも一番下のクラスである。

 「スペルが間違っていても、文法がおかしくてもいいから、何かノートに書く」というレイン先生の指導によって、プレシャスは徐々に「自分の考えを言葉にして、人に伝える」ことに目覚めていく。問題児だらけのクラスメイトと親交が深まるにつれて、内向的でむっつりとしていたプレシャスの表情も明るくなっていった。

 

 物語の中盤までのあらすじをまとめるとどうしても熱血教師モノの作品めいてきてしまうのだが、この映画の真の魅力はそこではない。

 

 古今東西、みんなに好かれる典型的な物語のパターンには、そこそこの顔の主人公に、平均以上の能力値が備わり、多少の欠点はあるものの基本的には社会に適合できている。社会に適合できない人物にはそれなりの「理由」が用意されており、それは「才能」「運命」「試練」と物語の筋次第で様々なアクセサリーに変わる。彼らが適合できなくっても世界は優しい。不当にいじめたり、存在を無視したり、可能性を奪ったりしない。

 物語の中では「失敗」も「物語」になる。「失敗」した人は、それでもカメラに自分を追ってもらえる。物語が終わる最後の最後まで。

 物語には「見栄えしない人」の居場所がない。現実世界の人間がどんなに大きなコンプレックスや消したい過去、運命を背負っていたとしても、客観の前にそれらは塵に等しい。たとえ同じような、否、もっと小さいくだらない問題を抱えていたとしても、解決も進展もしないうえにそれを誰かに見てもらうこともできない自分のほうが、よっぽど切実に苦しんでると感じる。物語化されるということは、消費するに値する、見るに値するということと同義なのだ。誰にも見られもせず、解決もしない私の日々のほうが、よっぽどクズでダメでゴミのようではないか。

 

 その点からいえば『プレシャス』はひどい。太っていて不細工(もっとも、演じたガボレイ・シディベが魅力的な容姿の持ち主であることは、ちょこちょこ挟まれる妄想シーンの輝きぶりによって証明済みなので、顔のパーツとその配置は美醜に関係しないことになる――私のような顔面コンプレックス人間には朗報だ)しかも学力がなく、両親に愛されておらず、他人から容姿を馬鹿にされ、貧困のただ中で妄想ばかり繰り返している。

 しかも物語自体も、ネグレクトによってろくに勉強ができない女の子が、学校と理想的な先生に出会ってやがて自分のいた環境から抜け出そうとする、その途中で終わってしまうのである。とてもじゃないが、ジャンプやマーガレットには載せられない。

 

 だからこそ、私はこの映画を観て「ああ、プレシャスは私だ」と思ったのだ。彼女がしんどい状況のなか生きている、たったそれだけですごいと思ったのだ。安いアクセサリーで精一杯おしゃれしているところも、体に合わせた服を着ているところも、街を歩くときに警戒心と自虐心からぶすっとした表情になってしまうところも、すべてが自分のコンプレックスとがんがん共鳴した。抑圧され、奪われた言葉を取り戻し、自分の言葉で母親と対話するラストシーンでは「ああ、こんなに成長して」と涙せずにはいられなかった。

 私はネグレクトにあったことはないと思っているし、レイプされたこともない。けれども不当に権利を侵されたと思ったことは何度もあるし、加害した人物がのうのうと生きていられる社会に今でも不信感を持っている。そして、その思いは私だけでなく誰もが抱えてるものだろう。そんな惨めな思いをしたことはない、といえる強い人なんて、いないに違いない。

 物語はいつも、最後に笑っている人のためにある。笑えなくても、輝きを放つ人のためにある。惨めな思いが報われないまま、心の傷が癒えないまま惰性で生きている凡人にスポットが当たる機会なんてほとんどない。だから多くの人は、人生がままならなくて厄介で不条理なゲームであることから目をそむけていられる。その現実と目を合わせてしまったら、痛みを味わわなくてはいけないからだ。

 映画『プレシャス』はその惨めな現実を当たり前のように描く。フラットな目で、滑稽に、しかし意義深く描く。だからこそ映画を観終わったとき、変えられない現実にぶち当たっても人生を生き直そうとし、そしてその先で愛されたプレシャスが、実に勇敢でキュートな女の子であったことに気づかされるのである。