厠草子

これで尻でも拭いてください

いとしのベタちゃん

会社に行く途中、毎朝すれ違う女の子がいる。

名前はベタちゃん。わたしが勝手にそう呼んでいる。

彼女はいつも、黒くて長い髪を左右に振り分けて胸あたりまで垂らしている。その毛先があまりにも真っ直ぐ揃っていて、痩せも衰えも知らずぷるんとまとまっていてきれいだから、いつのまにか、同じようにうつくしいヒレを持つ魚の名前で呼ぶようになっていた。

 

ベタちゃんに会えるのは朝、いつもより1本早い電車に乗れたときだ。

駅前の横断歩道を渡って少し歩くと、長くて少しラインのすぼまったスカートを履いた彼女が、裾をゆらゆらさせながら歩いてくる。髪と服の雰囲気がこれ以上ないくらいにぴったりと重なっていて、遠くからでも見惚れてしまう。

マスクをしているし、まじまじと見るわけにもいかないので、顔はよく知らない。だけども、伏し目がちな目元にはどことなく優美な感じが漂っているので、絶対にわたしの好きなタイプの美人だわ……と勝手に決めつけている。

 

ベタちゃんに会えるのが毎朝のわたしの楽しみだ。彼女の視界に入った時のために、身だしなみもちゃんと整えるようになった(ときどきダメな日もあるけど)。

同じ時間に同じ駅を利用しているだけの他人だけど、通りかかってくれるだけでも生活に張り合いがでる。彼女のファン(?)にふさわしい自分でいたい、と背筋がしゃんとする。

 

いい大人だから、イケてると思われたいから、社会人らしくしないといけないから、サボってると思われたくないから、嫌われたくないから、頑張る・ちゃんとするというマインドセットが、ときどき途方もなくしんどくて難しいように思うことがある。

そんな時こそ、直接的な利害関係をもたない他人の存在に目を向ける。同じ世界で、懸命に生きている人が他にもいる。その輝きをお裾分けしてもらうと、わたしももうひと踏ん張りしてみようかしらという気持ちになる。


とりあえず、明日は髪をきれいにしてみようかな。

人の行き交う街のありがたさに手を合わせる間に、穏やかな日曜の日が暮れていく。