厠草子

これで尻でも拭いてください

花ぞ(忘れたい)昔の香ににほひける


 久しぶりに使う香水の香りを嗅ぐと、古い記憶が呼び覚まされる。だいたいは、焦燥感とともに。

 

 人が香水を買いたくなるのはどんな時だろう。わたしは、香りのイメージを借りて現実のつらさを払拭したい時だ。

 ある時は怒られてばかりのバイト先に向かう道を、またある時はお金も予定もない虚しい夏の休日を、またある時は、好きな人の好きな人はわたしじゃないという事実を、なんとか耐えられるものにしたくて香りを纏う。それだけで仕事ができるようになる気がするし、空っぽの夏休みを愛せる気がするし、愛されない孤独を自由だと感じることができる。

 もちろんそれは紛い物の自己啓発だから、効果も束の間しか続かない。記憶に残るのはいつも、「この状況を変えたい」と焦る感情だけだ。

 「劇的な出会いで自分は変われる」という期待をしなければいいのかもしれない。フラットな気持ちで好きな香りを選べば、わざわざ嫌な記憶と結びつけなくてもいいのかもしれない。

 しかしそうはいっても等身大の自分にはなかなかときめけないものだ。わたしに相応しいもの、にわたしは惹かれない。それよりも、別の輝いている誰かになりたいと思ってしまう。

 

 香水というツールは、纏うことで理想的なイメージを体現できるかのように語られがちだ。しかし同時に、脚色のできない、いま生きている自分自身の記憶を、香りに仮固定するような効能もある。
 嗅覚は、どうやら脳みそのなかでも、過去の記憶と近いところに格納されるらしい。そういえば大昔の歌にも「人はいさ心も知らずふるさとは花ぞ昔の香ににほひける」なんてものがあったな。記憶を香りに結びつけるのは、いまに始まった現象じゃないんだろう。

 しばらく纏っていない香りの数々は、わたしの焦燥を切り取ったコレクションといっても過言ではない。さっきは、まるで香水にまつわる記憶の方が間違っているような書き方をしていたが、実際にはどれもこれも、香りは正しくわたしの人生に結びついている。

 

 焦っていた自分のことを思い出すから、香水は最後まで使い切れたことがない。だけどひょっとすると、ひと瓶がなくなる頃には結びついた色んな記憶が混ざり合って、正しくわたしの香りになっているかもしれない。

 人の心は移り変わるが、花は昔と同じように薫っている。あの時の焦燥感ごと香りを纏って、何度も今日をはじめるのだ。

服と想いと思い出と:水色のシャツワンピース

 

 シャツワンピースは、多分まあまあ似合う方だ。

 

 おしゃれがわからなかったその昔、最初にクローゼットに招き入れたのはチュニックだった。ワンピースやスカートを履くのは調子に乗ってると思われそうで怖かったし、パンツスタイルでどうおしゃれをしたらいいのかはよくわからなかった。結果、お尻が隠れるくらいの丈のチュニックにジーンズを合わせるのがお決まりの格好だった。うっかりすると20歳くらい上の人に見られかねないセンスだったが、己の見た目に対する自己評価が恐ろしく低かったので、むしろ等身大の装いな気がして安心だった。

 

 でも、やっぱりそれでは満足なんかできなかった。なんとかあと一歩おしゃれになりたい、なんかもうちょっと、若者の間で浮かない感じになりたい。

 その時によく着ていたのがコットン素材のシャツやブラウスだ。ベーシックな服だけど、ほんの少しだけきちんと感が出るのがちょうど良い。

 そんなわけで、シャツワンピースにも親近感というか、昔馴染みに近い感覚がある。

 

 翻って、では今のわたしはシャツワンピースが大好きなのかというと、実はそうでもなかったりする。シャツワンピースに対する感情は、安心できるけど、でもなんかしっくりこないんだよな〜との間を行き来している。

 わたしは非常に真面目な会社員らしい見た目をしている。そのせいか、普通のシャツワンピースを着ると、もうおそろしくプレーンなひとになってしまうのだ。

 具体的には、エッセイマンガでよくあるような、あえて手を抜いて描いたアラサーの共通項を集めて固めたみたいなルックスをしている。直毛でボブくらいの長さの髪をした、ああいう感じ。当然(?)メガネもかけてる。そんな女がプレーンなシャツワンピースを着るとなると、もう何も味がしないパンみたいになってしまう。こんな比喩で理解してもらえるだろうか。

 

 いや、でも別にわたしはわたしの見た目がまあまあ好きだし、ぱっと見だと堅実そうに見えるところも気に入っている。華やかさに欠けるけどこれはこれで使い勝手がいいというか、悪くない。派手な柄のワンピースとかを着ると褒めてもらえるし。初対面でもしっかりした人に見えてお得だし。

 もちろん似たような見た目の人がシャツワンピースを着るのだってぜんぜん素敵だと思う。さっきは味がしないパンなんて言ったけど、裏を返せばそれはシンプルの美しさってことだ。

 だけどそれはわたしのなりたいわたしじゃないんだよな。このわたしのまま、どうやったらシャツワンピースと仲良くなれるのかが知りたい。

 

 今、うちには水色のシャツワンピースが1枚ある。シャツワンピースと呼ばれるものはそれだけだ。確か転職したてでお金がない時期、売れ残っていた春物をたまたま購入したのだ。

 着ると、結構清楚な感じになる。生地が柔らかめで、裾や袖に膨らみの出る形だから、シャツ特有のさみしい印象は多少和らぐ。襟は王道のシャツカラーで、ロングネックレスの収まりがいい。好きなところが多くて、もう購入してから2年ほど経とうとしている。

 今までのものと何かが違うとすれば、裾のボリュームかもしれない。シャツをそのまま長くしたようなストンとしたまっすぐなシルエット、U字の形のあの裾が、思い返せばわたしにはどうしても似合わなかった。体質的にふくらはぎがたくましくなりやすいので、それが目立つ気がするのが気に入らないなのかもしれない。

 何より、綺麗な水色がいい。緑っぽさも赤っぽさも入らない、青い絵の具をそのまま水に溶かしたような色。ティファニーブルーみたいな水色も素敵だけど、今はこの華やかすぎない色味がちょうどいいのだ。着ていて疲れにくい。

 

 色々書いてみたけれど、ひょっとすると、歳を重ねたらまた似合うものも変わるかもしれない。30代まであと3年ある。今しばらくはふわふわした、シャツワンピース「らしからぬ」服とお付き合いしていこう。

 こんな見た目してるけど、わたしけっこうゆるゆるだし、へらへら人に絡みにいきがちだから、これが案外ちょうどいいバランスかもしれないしね。

 

 

 

 

 

 

終わらす ための 師走

 

 しわっす。

 

「終わり」のもたらす効果

 今年もまた12月がやってきた。

 1年のうちで一番好きな季節は12月だ。街が華やかだったり、ボーナスが出たり、イベントや連休があったりするのもそうなのだが、何よりうれしいのは「終わり」が来るというところだ。

 仕事面では、もう年内にやれないことは一回置いといて来年から手をつけようだとか、年内に終わらせられれば多少手を抜いてもいいよだとか、「終わり」があることでタスクと締め切りの連鎖から束の間解放された気分になる。年内の最終日に掃除をするのも、色んなものを捨てて日常から解き放たれる感じがして気持ちがいい。

 プライベートでも、今年も終わるから一回会っとこうか、飲みに行っとこうかなんて、いつもなら起こらないようなイベントが発生する。「終わり」がもたらす解放感によって心理的ハードルが下がった結果かもしれない。年末年始を挟めば有耶無耶になるだろうと思ってか、しばしば胸襟を開いた話が聞けるのもうれしい。

 

 終わることができる、というのは素晴らしいことだ。どうにかここまでは間に合った、下手くそなりにやり切った、だからもう自分は解放されていい、という気持ち。毎年この3週間くらいが、いちばんキラキラしたマインドで生きていられる。人生は楽しいと思える。

 

 でも、サラリーマンになる前はそうでもなかったはずなのだ。どちらかというと、夏や春の長期休みの方が友だちと遊べるから好きだった。イベントごとのない純然としたお休みは、心から安らげる時間だった。刺激のない穏やかな日々を満喫しながら、どこかでまた学校が始まることを待ち望むのも楽しかった。

 ああでも、年度末や卒業前のちょっと手持ち無沙汰な時間は、やはり昔から好きだったかもしれない。卒業という儀式がなくなって、手近な「終わり」がなくなった結果が、年末が楽しいという感覚に結び付いているのかもしれない。

 もちろん、こんなことを言っていられるのは年末年始がある仕事をしているからで、わたしが何にもしなくても世界が回るという状況に甘えていられるからなのかもしれない。その年末年始に働いている人からしてみれば、いいご身分ねという話なのかもしれない。こんなんだから、わたしは一生、土日休みの仕事だけはやめられないと思う。

 

もしも人類最後の日に

 突拍子もない話になるが、たとえば地球の終わりの日が予測できたとして、その最期を待つ時間はどんなふうになるだろう。

 その時はもう、年末の比じゃないくらいに誰もが働かないんだろうなと思う。インフラは止まってて、何日も歩いて移動しないと遠くの人には会えなくて、多分電気も止まったりしてるからオンラインで挨拶することも難しいかもしれない。それに食べ物屋さんだって早々に閉まってしまうかも、と考えると、最期の晩餐はあまりおいしいものは食べられないかもしれない。

 でも、と立ち止まる。案外人間は物好きな生き物で、最期の最期まで会社に行ったり、物を売ったり買ったりするのかもしれない。

 だって、年末のキラキラ感だって、年末の最後の数日には消えてしまうのだ。家でぼーっとしてる時間は、安らぎにはなるけど、輝きがない。最後の数日心置きなくだらだらするために、やり切った!と言えるところまで曲がりなりにも頑張ってみる。そういう時間が「終わり」を待つ時間を少し優しくするのかもしれない。

 

 この時期になると、そうやって「終わり」の日のことを想像する。あるいはそれは星の終わりでなくて人生の終わりの日かもしれない。わたしがどうやって死ぬことになるか、まだ想像もつかないけれど、その時は今ごろの街のイルミネーションくらい、キラキラと人生を楽しんでからさよならしたいものだ。

 

 さあて、明日も仕事。

怒られたときに「○ね」と思う効能(兼・中島義道『ひとを〈嫌う〉ということ』感想文)


 あいつ○ねばいい。絶対○す。必ず○す。

 

久しぶりに怒られた

 マルチタスクの多い部署に勤めている。やることが多い。しかも登山のごとく遠大なプロジェクトじゃなくて、100mダッシュみたいな細けえ仕事がいっぱいある感じなので、なお多く感じる。タスク管理がすなわちペース管理・品質管理に直結するので、昔から宿題の手をつける順番を間違えがち、かつケアレスミスも多いこどもだったわたしにはあまり向いていない。


 ので、よくミスをする。


 恐ろしいときには会議を2週連続ですっぽかしたりするし、明日終わらせないといけない仕事に今日から手をつける羽目になったりする。繁忙期じゃなければリカバリーも効くが、この年末年始に忙しくならない企業なんかないので、ここ数ヶ月はミスだらけ(そして残業だらけ)で生きてきた。


 ので、最近先輩からちょっとしっかりめに怒られた。

 まあ当然である。


 しかし、その日のわたしにとっては全然当然ではなかった。もう在らん限りの力を使って仕事しているのに、なんでわたしが怒られなければいけないのか。別に今破った締め切りはいわゆる「本当の締め切り」ではないし、そもそもわたしの仕事が予定通りに終わらなかったのは、その前にあったお前の仕事を手伝うのに時間がかかったからだろうが。第一わたしのいま抱えている仕事の相手はそこそこ厄介な人たちだし、上司からもそこには気を遣っとけと言われているから普段より進めるのに時間かかってもしょうがないわけで。別に無駄な仕事してないんだよこっちは忙しいんだよそもそもお前らに気を遣って色々雑用引き取ってるんだからちょっとは大目に見ろよお前が繁忙の時はフォローしただろうがくそが。


 いやーマジで○んでくんねぇかな。


 という感想が頭をよぎるようになるのにそう時間はかからなかった。ないわーマジでない。今後一切こいつに心開かないわー。お前いなくても仕事は回るから(絶望的に人のいない部署だからほんとは回らないけど)もう明日から会社来るなよくそ帰り道に事故に遭ってしまえ。

そんな呪詛が渦巻いてその日はあまり仕事にならなかった。

 でもまた怒られたら悔しさで憤死してしまいそうなので、それなりに遅くまで残業して仕事はやっつけた。あんまり残業してると仕事ができないやつみたいだから、ちょっと早めにタイムカードも切って。


 で、である。

 隣の席の先輩を呪い○しそうなほどに恨んでもう二度と心を開くまいと誓ったとしても、否応なしに日々は続いていく。毎日顔は合わせるし、相手が普段通り接してくれば(そしてわたしからも特に敵意をあらわにしなければ)、だんだんと関係も修復されてしまう。

 案の定、1週間と経たずわたしの気持ちは軟化してしまった。「えー先輩まじ天才っすねー」とか、お世辞か本心かわからない感じでするっと言えてしまう。先輩が実家の猫の動画を見せてくれれば喜んで見るし、目があったら反射でついにこっとしてしまう。

 怒ることすら続かないのか、と自分の一貫性の無さになんだかがっかりしてしまう。

 が、しかし。それでも一度相手を頭の中で怒りの限り呪うことには意味がある、と思う。

 そう思わせてくれた本が『ひとを〈嫌う〉ということ』(中島義道/角川文庫)だ。

 

〈嫌い〉の豊かさを考える

 全体をわたしなりに要約すると、

自他共に認める嫌われ者のおじさんが、〈嫌い〉について考え尽くし、「人が人を嫌いになるのは自然なことで、そこには豊かさがある」と発見する本

 である。

 てっきり心理学の本かと思って購入したところ、初っ端からとにかくおじさんがひたすら考えてる本だったので、最初はだいぶがっくりきた。主観の本かよ。客観をくれよ。科学とか医学とかで安心させてくれよ。

 だが、読み進めていくと、だんだん著者の言ってることに納得している自分に気づく。自分が嫌われたエピソードだけ(ということはなくさまざまな文献をきちんと引用しているが)でここまで〈嫌い〉についての洞察ができるものなのか、と。

 このおじさんの渾身の洞察本で、特にいいなと思ったところ、それは「〈嫌い〉は結晶化する」というくだりだ。

 スンダールは「目に触れ耳に触れる一切のものから、愛する相手が新しい美点をもつことを発見する心の働き」であるところの「愛の結晶化作用」を説いたが、〈嫌い〉にもそれはあてはまる、と。

なんとなく気に食わなかった人が、あるとき突然結晶化作用により大嫌いになることは誰でも知っています。それまではばらばらであったその人の属性が、突如見事なほど組織的に「嫌い」の要因へと変質してゆく。


では、どうしたらいいのか。結晶化の方向に走りだしたら、まずは冷静にその成りゆきを観察すること。しばらくは、あまり抵抗しないで結晶化するにまかせる。はたして、気がつくと相手はありとあらゆる嫌いな属性を担った者、つまり大嫌いな者として、あなたの前に現れているでしょう。


しかし、どこまでも「嫌い」が肥大してゆくわけではなくて、あるところまで来ると、キャパシティが限界で同じところをぐるぐる回っている感じに至ります。相手の「嫌い」の原因を五〇並べてもう出てこない。そのうち、それら原因同士が崩れはじめ溶解しはじめて、何が何だかわからなくなってくる。結晶化は止まったのです。

 なんかもうよくわかんないけどあいつ嫌い、すごく嫌い!みたいな状態である。坊主憎けりゃ袈裟まで憎い、とも言う。著者曰く〈嫌い〉という感情にも段階があり、それが行き着くところまで行き着くと、それ以上の段階には進まなくなるという。

 そして、そうなると人は冷静に〈嫌い〉を眺められるようになり、そこから学び(という言い方が説教くさければ知見・納得・理解など)が得られることがある、と続けている。

ゆっくりと時間をかけて、その発酵を待ち、そこから「俺(私)はこういうふうにとらえられているんだなあ」とか「こういうふうにひとって誤解するんだなあ」とか「こうしても、ひとってやはりわかってもらえないんだなあ」とかさまざまな勉強をする。少し冷静になりますと、自分に対しても多少批判的に「俺(私)ってこういうふうにひとを裁いてしまうんだなあ」とか「こういうとき、俺(私)って聞く耳をもたなくなるんだなあ、依怙地になるんだなあ」とか、さまざまなことが見えてきます。

 これはなるほどそうであるなあと思う。

 事実、わたしはこの度の先輩の叱責に大いに腹を立てたが、感情が鎮静化すると「それでもわたしは学ぶ必要があるし、この人には学ぶべきところがある」という気分には多少なった。

 

 そして先にも書いた通り、本書は「人が人を好きになるのと同じくらいに、人が人を(すこぶるしょうもない理由で)嫌いになることは自然なことである」と説いており、その自然に逆らおうとする道徳的な人はむしろその行為によってさらに苦しみや困難を作り出していやしないか、と投げかけてくる。

 確かに自分も「でもあの人にも正しい部分はあるし…」とか「こんなことで恨むなんて子どもっぽいかも…」とついつい考えてしまいがちだが、無論余計に苦しくなるし、そんな弱々しい理性で怒りから立ち直れたことなんてない。

 むしろ、一度〈嫌い〉に全力で囚われてみることで、逆にその馬鹿馬鹿しさが怒りや恨みを鎮火してくれる、という経験の方が多い。

 

 もちろん本書の論はこれだけではなく、嫌いの段階をつぶさに分析してみたり、ケーススタディ的にエンタメ作品を例に「どう〈嫌い〉になっていればより豊かになるか」というIFを考えたり、〈嫌い〉にぶち当たるのはどうしようもなく辛いけど、どう折り合いをつけているのかなど、あらゆる角度から〈嫌い〉を考え尽くしている。おじさんの渾身の考察は本当にリッチで、読むとちょっと人間についてわかった気がするし、楽になれる気がする。

 

怒られた時に「あいつ○ね」と思うことの効能

 まとめると、著者は〈嫌い〉の結晶化を待ち、だんだんと相手への憎しみや軽蔑が増していく過程を止める必要はない、何故ならそれは自然なこと、豊かなことであるからと書いている。

 そこにわたし個人の見解を付け加えるなら「あえて自分を甘やかして、いきなり相手をとことん〈嫌い〉になってみるのも、案外悪くないんだな」と説いてみたい(誰に)。

 それは「一気にフルパワーで嫌うこと」の効能、言い換えれば「怒られた時に○ねと思うこと」の効能である。


 もちろん、自分から怒りに火を焚べるわけだから、リスクは覚悟しなければならない。その火はずっと消えないかもしれない。〈嫌い〉になりすぎて2度と元の関係に戻れないかもしれない。実利のある人間関係を逃すかもしれない。

 でもきっといつか結晶化は止まり、敵だとしか思えなかった相手が同じ人間であることを知る日は来る。どんなにアホでもわれわれはそれなりに経験から学ぶ生き物であることに加えて、新たに〈嫌い〉になる人はどんどん増えていくからだ。

 かく言うわたしは人生の中で「こいつはいつか○すリスト」というものを作っている。ランキングのベスト3は常に名前と罪状が言える状態にあるのだけれど、そのランキングすら時間と共にどんどん入れ替わっていく。この春にはついに1位が入れ替わった。M-1もびっくりの衝撃展開が人生には常にある。

 でも、それはきっと幸福なことだ。〈嫌い〉が新陳代謝していき、いずれ今憎んでいる人のことも瑣事になる。塵芥のように思える日がくる。そういう形の希望もある。

(また1位タイとか、参加者が全員高得点のとんでもないレースが始まるかもしれないが、それはそれとして)

 うまく生きるために中庸やバランスが必要だと叫ばれる昨今、そうあれないわたしのような人には、ひょっとすると安心して苛烈になることが突破口になるかもしれない。「安心」がポイントで、〈嫌い〉が波及したり人に指さされたりしないところで花火のようにぶち上げるのがいい。念のため。


 人間が多面体であるように、誰かへの想いというのはいつだってマーブル模様だと思う。

 あいつがきらい、気に入らない、許せない。でもちょっとした優しさがうれしかったり、稀に「こいつなかなかやるな」とも思う。あいつは好かない、ああはなりたくないと思いつつも、その人の小さな親切に助けられる日がある。逆も然りだ。それはきっと自然なことだ。


 だから、先輩。わたしの生活にまあまあ大切で必要なあなたの死を、たまに心から願ってしまうことを許してね。尊敬してるけどたまに殺してやりたいくらい憎んでしまうことも許してね。長い人生の旅路の中で、憎しみも怒りもいずれ瑣事になっていくことをわたしたちはきっと知っているから。


 あーでもわたしのことは嫌いにならないでほしいっすね。ははは。

 

 

 

モードがやりたい

この秋は、この何十回目の秋こそは、モードになりたい。


夏が終わる気配がしてきた。今年の夏もいっぱい好きな服を着た。春から夏にかけて友だちと絶縁したし、お盆休みには親族宅で大暴れしてとんぼ返りしたり、したけど、それでもいい夏だった。好きな服をおおむね好きなように着ていられたから。

夏服は単価が安いから冒険しやすい。服オタになれない下手の横好きにはいい季節だ。それに何より、わたしの大好きなノースリーブが着られる。わたしの肩がゴツいのはこのためだったのか!とさえ思う。肩をそびやかして袖のない服を着るのは楽しい。

だけども、そんな季節ともそろそろお別れの準備をしないといけない。

そりゃまだまだノースリーブは着られるけど、上にカーディガンやジャケットを羽織る必要は出てくるわけで。それだけであの軽やかさ、開放感は半減、いやそれ以下になってしまう。

ただのインナーには興味ありません。ノースリーブ、タンクトップ、深めのVネック、ペチコート必須な透け透けの生地、馬鹿みたいにでかい動物柄、無駄に背中にスリットのある服があったら、あたしのところへ来なさい。でもそれだって市場に出回っているうちなのである。もう次の衣替えが近づいてきている。


今年は、季節の変わり目に装い全般について振り返りをするようにしていた。冬、春、夏を振り返って前を向くと、秋である。

1年前はどうしていただろう。なんかカーキのもたっとしたシャツワンピースを買った気がする。ボーイッシュというか、ちょっとゴツゴツした感じの、趣味で革小物の手入れとかしてそうな感じのワンピースだった。

あとは深めのVネックの黒いワンピースか。恋人が選んでくれただけあって、私によく似合っていて好きだ。


だけどもでも、せっかく一瞬で過ぎる季節なのだから、何かひとつ遊んでみたい。今持っている、過不足なくわたしにフィットする装いもいいけれど、たまに(?)は意味わかんない服を買っておのれを脱ぎ捨てたい時もある。なんせ夏はわたしの季節だったから、秋はわたしじゃない季節にしてみたい。


そんなわけでモードである。

モードがやりたい。なんか顔がシュッとしてる人やタッパがあって持て余してるような人が有利そうだし。違うか。そんなことないな。肩がゴツいのはありだろうか。

でもセンスはぜんぜんない。しかも顔や頭をつるっとプレーンな感じに寄せていたから、多分真っ黒とかひらひらとかずるずる引きずりそうなやつとかが死ぬほど似合わない、気がする。丸メガネなんてお呼びじゃないでしょという気もする。派手な化粧も苦手だし。

それにお葬式なんか?ってくらい暗い服、毎日着てたら飽きちゃうかな。そんなことないかな。あと長いパンツってヒール必須じゃないの。遅刻魔には厳しいものがある。

ぜんぜんわたしらしくなさそうだけど、なんかでもいいんだよな。進んで不自由なカッコしてるというか、人工的な美に寄せているというか、そういう装いに矜持を感じる。


ロリータやゴシックはまた着物とかの世界に近いのかなーと思っているので、日常着で挑戦するならモードだな。でもモードって何したらいいんだ。初心者向けのやつとかないのか。

雑誌を見て勉強しようと思ったら、なんかやばい組み合わせのスナップばっかりで難しそうだった。その煮しめたような色のボタンがいっぱいついているジャケットはオシャレなんですか。わたしがやったら、古着屋でいちばん安い服を着てきた人みたいにならんか。そんなの、海外セレブがやるからありなんじゃん。それに服屋さんで見た、白黒で凛としてる感じじゃない。どうやらモードにはいろいろあるらしい。難しい。


だからまあ、自分なりのモード。取り急ぎで手始めなモードをやりたいと思う。己を脱ぐ練習であり、やはり己でないとなれば脱ぐことになるのも含めて練習である。というわけで、次のお給料日がきたら、いかれたニットでも買いに行こうと思う。

 

いとしのベタちゃん

会社に行く途中、毎朝すれ違う女の子がいる。

名前はベタちゃん。わたしが勝手にそう呼んでいる。

彼女はいつも、黒くて長い髪を左右に振り分けて胸あたりまで垂らしている。その毛先があまりにも真っ直ぐ揃っていて、痩せも衰えも知らずぷるんとまとまっていてきれいだから、いつのまにか、同じようにうつくしいヒレを持つ魚の名前で呼ぶようになっていた。

 

ベタちゃんに会えるのは朝、いつもより1本早い電車に乗れたときだ。

駅前の横断歩道を渡って少し歩くと、長くて少しラインのすぼまったスカートを履いた彼女が、裾をゆらゆらさせながら歩いてくる。髪と服の雰囲気がこれ以上ないくらいにぴったりと重なっていて、遠くからでも見惚れてしまう。

マスクをしているし、まじまじと見るわけにもいかないので、顔はよく知らない。だけども、伏し目がちな目元にはどことなく優美な感じが漂っているので、絶対にわたしの好きなタイプの美人だわ……と勝手に決めつけている。

 

ベタちゃんに会えるのが毎朝のわたしの楽しみだ。彼女の視界に入った時のために、身だしなみもちゃんと整えるようになった(ときどきダメな日もあるけど)。

同じ時間に同じ駅を利用しているだけの他人だけど、通りかかってくれるだけでも生活に張り合いがでる。彼女のファン(?)にふさわしい自分でいたい、と背筋がしゃんとする。

 

いい大人だから、イケてると思われたいから、社会人らしくしないといけないから、サボってると思われたくないから、嫌われたくないから、頑張る・ちゃんとするというマインドセットが、ときどき途方もなくしんどくて難しいように思うことがある。

そんな時こそ、直接的な利害関係をもたない他人の存在に目を向ける。同じ世界で、懸命に生きている人が他にもいる。その輝きをお裾分けしてもらうと、わたしももうひと踏ん張りしてみようかしらという気持ちになる。


とりあえず、明日は髪をきれいにしてみようかな。

人の行き交う街のありがたさに手を合わせる間に、穏やかな日曜の日が暮れていく。

 

 

 

Sくんへ(追悼にかえて)

 お久しぶり。まさか歳下のあなたが先に旅立ってしまうとは思いませんでした。最後に会ったのはあなたが中学生か、もしかしたら高校生くらいの頃かな。いつも笑顔で天真爛漫に見えたあなたが、よもや生きていることをやめたくなるくらいに苦しんで、自分で命を絶とうとは想いもしませんでした。

 あなたの訃報を知って最初に思ったのは「死ぬ前におばちゃん(わたし)に相談してくれたらよかったのに」でした。死ぬくらいなら、全然関係ないおばちゃんに愚痴の一つくらいこぼしてから決めたら良かったのに、と思いました。でも、それはどう考えても叶わない願いですね。死にたいくらいに辛いときって、もう世界の誰も、自分のことなんて助けてくれないと思うものですもんね。

 わかります。わたしもわたしの弱音を、利用したり馬鹿にしたり面倒くさがったりせずに受け止めてくれる人が、果たしてどれだけいるだろうかと思います。友だちや知り合いの大多数には普段平気なふりしか見せてないし、ここだけの話、そもそもわたし個人に興味や好意のあるやつなんていないんじゃねえの、とすら思っています。みんな、共感や傾聴や肯定といった見返りがほしいから相手してくれるんだろうなと。

 どこにも味方なんていない、と思ったら、本当に世界は暗いですよね。それは、向こう側に行こうと本気で考えて本気で実行したことのないわたしにも、覚えがある感覚です。


 もう死んじゃってるからどうしようもないけど、もしタイムマシンがあって今すぐ生きてたころに戻れるなら、一回だけでもあなたと話したかったです。

 安くてカロリーの高いモノばっかり出てくるタイプの飲み屋に引っ張りこんで、いっぱい飲んで食べて、お腹が膨れてひと心地ついたところで「実はおばちゃんも友だちが少なくてさ、集団にはだいたい馴染めないし、仕事も粗相だらけで泣いちゃいそうになる日があるよ」って話ができれば良かった。そして、でも誰からも気にされなくても生きてていいし、自分の居場所は好きなところに作ればいいじゃんって言ってあげたかった。

 好きなものとか、好きなこととかあったでしょ、そういうものだけいっぱい抱えて、孤独に生きてるのだってぜんぜん楽しいよ。家族から離れて暮らしたかったら、助けてくれる社会の制度もいっぱいあったんだよ。友だちなんていなくても平気だし、作りたくなった時に作ればいいんだよ。

 ひどいことを言ったりやったりふれまわったりする人は田舎に置き去りにして、ぜんぜん違う土地で生きたっていいんだよ。

 もちろんわたしはさ、起死回生の一手を打って今ここにいるわけじゃないから、あなたが置かれていた状況でそれができたかどうかはわからない。ただ、小さな逃げをたくさん打って、できる範囲で社会に背を向けて、好きなことして、ときどき誰かをアテにして、気づいたらなんとなく生き続けることができていたよわたしは。

 おばちゃんはお金もないし、頭も良くないから、直接的に力になってはあげられなかったかもしれないけど、こういう大人もいるんだなって知って欲しかったな。もし趣味が合えば話し相手くらいにはなれたかもしれないし、それにおばちゃんと話が合わなくても、どこかに君と話の合うやつがいるかもって、少しばかり思えたかもしれない。こいつは使えない大人だけど、まあこんなんでも生きてるからもう少し楽になってみようかなって、それくらいは思ってもらえたんじゃないかな。

 

 まあ、もう死んじゃってるから今更言ってもしょうがないか。せめて今から神様のところに行って文句でも言うんだな。ついでにわたしの分もよろしく伝えておいてよ。そのあとは、蓮の台な何だか知らないけど、ふかふかした暖かいところでくつろげるといいね。

 ふつうに考えたら生きてる人間より死んだ人間の方が圧倒的に多いわけだし、友だちとかもそっちで探した方が、案外選択肢が広がっていいかもしれないね。すごい人にも会えるかも。万が一、夏目漱石林芙美子に会ったらわたしの代わりにサインもらっといてよ。まあこっからじゃ本も色紙も渡せないけどさ。

 

 わたしはここで、君を軽率に飲み屋に誘えるおばちゃんになれなかったことを悔いながら、もう少し生きていようと思います。

傷ついた魂がこれ以上苦しむことがないように。どうか安らかに。